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気になるジーサン《平手政秀》 [2/2] 「合理性」と「社会性」

散歩中に偶然見かけた神社(名古屋市北区の綿神社)の由緒書に、以前から気になっていた平手政秀が「信長の奇行平癒」を祈願して自ら彫ったこま犬1対を奉納した、との記述を見つけ、政秀の邸宅跡地・志賀公園まで足を伸ばしました。

数日後、政秀の首塚がある、市内西区の東雲寺を訪れました。平手町/志賀公園から西北西に2 kmあまり、ざっくり、清州城(当時は尾張守護代・織田大和守家の居城)と那古野城の、ほぼ中央あたりに位置しています。

首塚は境内墓地にあり、野次馬の立ち入りは憚りました。Wikipedia「東雲寺」の中にその写真があります:

東雲寺門前

政秀の自死後、信長は彼の菩提を弔うため、小牧山の南に政秀せいしゅう寺を建立しました(1612年に現在の中区栄に移転)。

信長公記によれば、信長は奇抜だが機動的なファッション(今でいう浴衣を袖を外して着たり、瓢箪や火打石などのガジェットを腰縄からぶら下げていたり)とお行儀の悪さ(栗や柿、瓜などをかじりながら馬に乗っていたり、人にもたれて歩いていたり)で知られ、「うつけ」と呼ばれていたとのことです。

一方で、馬術の稽古を欠かさず、3月から9月までは川で水練をし、弓・鉄砲・兵法も正式に学んでいたとのこと。

つまり、
➀ 奇抜だが機動的・実用的なファッション
➁ お行儀の悪さ
➂ 戦闘訓練・戦略学習の励行

が同居していたわけです。

そこで、
・既に「うつけ」と化している青年・信長に、
・ジーサン政秀が、「困った、困った」と頭を抱える構図 ── これは正しいのだろうか?

ジーサン政秀と信秀・信長父子の年齢を比較すれば、
・平手政秀(1492-1553)
・織田信秀(1511-1552)
・織田信長(1434-1582)

(生没年はいずれも西暦)
つまり、織田弾正家の家老・政秀は、当主(守護代の織田本家を支える三奉行のひとり)信秀が生まれた時には既に18-19歳、信長が生まれた時には42歳
人生50年時代では、傅役もりやく/教育係といってもまさに「じい」、孫に対するようだったのではないか?

そして、信長成長期の父・信秀は極めて多忙で、
・1538年:今川氏豊から那古野城を謀略で奪取。
・1539年:古渡城を築いて経済的基盤となる熱田を支配。
・1540年:将軍足利義輝に拝謁し、伊勢神宮遷宮費用を寄進、翌年、三河守に任じられる。
・1542年:美濃の斎藤道三と戦い、一時は大垣城を奪取。
・同年:第一次小豆坂の戦いで今川義元を破り、西三河の権益を保持。
── などなど。
この後は美濃にも今川にも負け続けるのですが、既に信秀の力は織田本家を上回っており、実質的に尾張を支配します。

それほど多忙の信秀に息子(長男ではない嫡男)信長を構う暇などあるはずなく、それどころか、信長の幼年時か、元服(1546年)前に那古野城を譲り、末森城に移っています。
つまり、父親としてはまったくの放任だった、と言えるでしょう。彼の実母も、溺愛するお利口さんの弟・信行(信勝)と共に末森城に住んでいました。

こういう「家庭」で傅役もりやく「じい」の役目はきわめて重要であったでしょう。

以後は私の勝手な解釈ですが、子供が誰の影響も受けずに特異な行動を取るはずはなく、幼き頃に、師匠やロールモデルの影響下にあって、その方向に進み始める。

政秀は信長の教育係として臨済宗妙心寺派の僧・沢彦宗恩たくげんそうおんに依頼した、とのことですが、これは③の第2項「戦略学習」の座学でしょう。沢彦宗恩たくげんそうおんは後に参謀となり、美濃・稲葉山の麓の地を「井ノ口」から「岐阜」に改めることを進言したとも言われています。

あるいは、
➀ 奇抜だが実用的なファッション
➁ お行儀の悪さ

は信長の異母兄(庶子)で信長より5-6歳年長だという織田信広の影響 ── という可能性はないでもない。

しかし、この時代、生母の身分が低かった庶長子と嫡男が一緒に育てられたとは考えにくい。

私は①の奇抜なファッション
・湯帷子(浴衣)の袖を外して ⇒ 機動性
・茶筅髷 ⇒ 手入れが不要
・腰縄 ⇒ いろいろ使える
・瓢箪 ⇒ 水や薬を持ち運ぶ
・火打ち袋 ⇒ 火打石などいざという時に使う道具入れ

は、むしろ《合理性》《実用性》から選択されたのだと思う。
必要なガジェットは、家臣に持たせるのではなく、自ら身に着けていることがいざという時に重要だ、ということではないか。

とすれば、②の行儀の悪さのうち、
・栗や柿、瓜などをかじりながら馬に乗っていた。
というのも、「移動中に食事を済ませる」という《合理性》ゆえではなかろうか?

②行儀の悪さの中で、
・人にもたれて歩いていた。
だけはよくわからないが……(歩行エネルギーの節約をしていた?── というのはさすがに無理かな……)

その後の信長の所業を見て、あるいは後に宣教師フロイスが見た信長の人物像を読んで、感じるのは、

一にも二にも《合理的思考》

である。
成長のかなり初期段階で、信長に《合理性》という価値観を植え付けた人物がいるのだと思う。

そして、一見『傾奇かぶき者』ファッションも、『食べながら移動』も、『夏の間のみの水練』も、
さらに、
『集団戦で有利なように槍の長さを長くすると共に、扱い容易なように軽くした「長槍隊」』も、
『若くして大量に調達した「鉄砲」』も、
《合理性》から考えを進めていった結果だと思うのです。

ファッションから行動規範にまで貫かれた《合理的思考》── それは、幼い時からの傅役もりやくである、「じい」が植え付けたのではないでしょうか?
「じい」はおそらく、18歳しか年の違わない信秀には純粋臣下として仕えた。しかし、42歳離れた「孫」には、彼の価値観を叩き込んだ!

平手政秀は、朝廷との折衝も担当するなど、織田信秀政権では主に外交面で活躍したそうです。斎藤道三の娘・濃姫と信長との婚約をとりまとめたのも政秀です。
主の命令に従うだけの「フツーの家臣」とは異なり、物事を《俯瞰的》に眺め、《合理的》に判断することの重要性を理解していたことでしょう。

「尾張の大うつけ」信長にとって柱となる価値観を育てたのは、「じい」の教育方針だったのかもしれません。

しかし、信長は遅くとも元服前・12歳の頃には父から那古野城を譲られ、城主となります。
この城のナンバーワンです!
前田利家(槍の又左)など子分を連れ回るようになったでしょう。「奇行」に続いて「粗暴」が問題になってきます。
これも想像ですが、この頃から政秀にとって信長は、
《Out-of-Control=制御不能》になっていった
のではないでしょうか。

信長に《合理的思考》の重要さを教えた「じい」の自死(諌死かもしれないし、別の理由かもしれない)は、不合理に思われるかもしれません。
しかし、「人生50年時代」に61歳で自刃です。
残り短い余生との引き換えなら、と意外に合理的な決断だったのかも、と思わないでもありません。

「信長公を守り立ててきた甲斐がないので、生きていても仕方がない」
とした「じい」の死に、信長は衝撃を受けて行状を改めたとも、その後もあまり変わらなかった、とも言われています。

信長が「じい」の死によって過去の行状を悔い、改めた ── とは私は思いません。
ただ、ひとつ学んだことがあり、それは、彼のその後の人生に大きく影響した。

それは、

《「社会性」は「合理性」の一部》

と理解したのです。

平手政秀の死から約3ヵ月後、突如、舅の斎藤道三から信長に対面したいという知らせが届きます。
「大うつけ」との噂の真偽を、自ら確認するためでした。

会見場所である正徳寺(聖徳寺:愛知県一宮市))で、道三の前に現れた信長は、髪を折り曲げに結い、褐色の長袴をはき、小刀を差し、見事な正装だったそうです。

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