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彼の街が函館で良かった

父が元気をなくしまった。

最初に彼の母が亡くなり、まもなく彼の妹に末期の癌がみつかったのだ。

母によれば、それまではなんともなかったのに、ある日起きたら何も話さなくなって、じっとしていたということだった。

きっと哀しみや不安が彼を満たしてしまったのだ。

母は、東京にいる私たちに心配をかけないようにそのことを言わないでいたのだが、父と母と私たち夫婦4人のライングループに父が反応しないのを不思議に思って聞くと、彼女は言いづらそうに受話器の向こうで口を開いた。

彼らはいつもなにか問題が起こるとラインがおとなしくなるのだ。いつもはこちらの興味もない鳥の写真などを送り付けてくるのに。

そんな中での帰郷で、不安が私のなかに広がっていた。
気を落とした父に息子としてなにを言えばいいのだろう。

父が空港まで迎えに来てくれて、父と私と妻の三人で、ぽつぽつ話しながら、父の運転する車で高丘町の家まで帰った。いつもとそんなに変わらない帰り道だった。

家に帰って母に聞くと、もうだいぶ回復してきたということだった。だけど、身体を動かした後はかなり疲れてしまうということで、その日も父はいつもよりだいぶ早く寝てしまった。

それと、叔母は一ヶ月程前に亡くなって、葬儀も済ませたということだった。

私たちはその日、東京にはないような静けさの中で眠りについた。

次の日、死んだ叔母の家に親戚がパラパラと集まった。
月命日ということだった。

最近会っていなかった親戚と、初めて会ういとこの子供たちがいて、懐かしいのだかなんだかよくわからない気持ちになった。
昔は、うざいほど勢いのあった叔父も、すっかり老人になって、申し訳なさそうに座っていた。

久しぶりに函館に帰ると、いつの間にか親戚は死んでしまった人の方が多くなっている。
みんなで先に旅行に出てしまって、僕だけ家で取り残されたような気分だ。

子供の頃に、親が親戚と話しているのをみていて、なぜ大人はこんなに寂しそうな話し方をするのだろうと思ったことがある。
だけどそれは、死を共有しあった者たちのトーンであったのかと、今になってわかった。

死んだ叔母の家での食事会は、寂しさと妙な明るさとの入り混じるおかしなテンションの会であったのだが、その間も父はほとんど話さないでじっとしていた。


実家のタオルは、ホテルのようにきれいに畳まれて並んでいる。
父が洗濯物を畳む係で、それが彼の神経質な部分を物語っている。

いつだったか東京の私たちの家に来たときには、家に着くなりリビングに敷いてあるラグが斜めになっていたのを、せっせとまっすぐに直していた。

そんなに細かいことに気を遣って生きていたら、大変だろうな。

そう思うと同時に、自分がその血筋を色濃く継いでいることを思い、自分の姿をみているような複雑な気持ちになった。

函館への帰省は、3泊4日だった。

2日目の夜に叔母の家に行ったほかは、特別何をするでもなく、4人で過ごした。たまに、函館に暮らす兄もやってきて、一緒にご飯を食べた。

湯の川から少し行ったところにある自然に恵まれた小高い丘の上に、僕の実家がある。

その家のすぐ近くには、香雪園という広い庭園があって、4人でゆっくり散歩をした。
子供の頃に、父と母に連れて行ってもらって、ここの芝生で兄と一緒にサッカーをよくしていた記憶が蘇る。こんなに豊かな空間が家のすぐ近くにあったのかと改めて思った。
途中でリスを見つけて、僕と妻と母できゃっきゃと喜んでいると、後から父がゆっくりとついてきた。

それから家では、庭にブルーベリーがなっているのを採って食べたり、庭に鳥が来ているのぼーっと眺めたりした。静かな時間だ。

家のすぐ近くには、農家のおばさんがそこの畑で採れた野菜を売っていて、散歩がてら4人でそこまで歩いていった。
母とおばさんがなにげない会話をしているのを、見てなんともいえない懐かしさを感じた。

昼は、家でじゃがいもをふかして食べた。

私たちが東京に帰る前の日、わたしたちは父の運転する車で恵山の方に向かった。

右手には、穏やかな浜がずっーと続いていて、私たちに寄り添っているようだ。波ですこしずつ持ち上げられた海面が光で反射して、きらきらしている。

父がまだ働いていたときは、叔父と米屋を営んでいて、わたしも子供の頃にはよく配達を手伝ったものだった。

父の車で二人でいると、

ほれ、きれいだよ
みなさい

函館訛りで、海を指してよく言われたものだ。

うるせーなと思いながらも、仕方なく目を向けると、確かにいつもきれいだった。

恵山へ向かう途中の道の駅で、駐車場に車を停めて休憩する。
浜へ降りてみると、久しぶりに聴いた波の音の中で、自分の体が軽くなっていくのを感じた。

波の音きくと、落ち着くね

そうだね

父と私の会話のあいだには、独特の時間が流れる。
素直に自分の感情を表すことが苦手な父と私との少し変わった会話のやり方だ。

また少し車で行って、恵山の中腹で車を降りて、歩いた。
ここは、数年前から帰省するたびに訪れる場所で、日本ではないような広大な草原が広がっている稀有な景色が見られる。
どこか浄土にでもきてしまったのはないかと思うほど、恐ろしく美しい景色だ。
この広大な風景をどう切り取ればよいかと思いながら写真を撮っていると、自然と遅れてしまって、父と母と妻は先に歩いていった。

それからまた少し車に乗って、水無温泉に向かった。
ほんとうに気持ちの良い場所なのだが、あまり知られていないのか、それとも地元の人たちはあまり興味もないのか、人もまばらだ。

海の中に温泉が沸いていて、その部分を石でせき止めて、露天風呂になっている。

父と私は水着に着替えて、温かいお湯に浸かった。

そして、しばらくすると、海水と温泉が混じり合うところで少しだけ泳いだり、カニを見つけたりしていると、子供の頃のような気持ちになっていった。

子供の頃には、父に立待岬に連れて行かれて、よく一緒に泳いだのを思い出す。
父は40〜50代の頃、仕事の合間の昼休みに、毎日のように立待岬に行って、ひと泳ぎして、また午後の配達に行っていた。
何がそんなに楽しいのだろうと、不思議に思って聞くと、

気持ちいいのさ

と、笑って言っていた。

帰りも、また少しずつ休憩しながら帰ってきて、最後は牧草地の広がる道を通って家までゆっくり帰ってきた。
日も傾きかけていただろうか。
牧草地の向こう側には、うっすら水平面も見えていた。

家に着くと、父はうれしそうに、

今日は調子いいわ

と笑顔を浮かべた。

私たち4人のなかに、安堵が広がった。
その夜は、父も少し遅くまで起きていて、色んな話をした。

私たちが帰る日、
この日も父は調子が良さそうで、言葉数も少し戻ってきていた。

この日は、千代台公園で青空のもと父と一緒にテニスをしたり、家でゆっくりお茶を飲んだり、浜辺のお店で昼ごはんを食べたりした。

その途中途中で見える函館の景色が、どれも心地良い。

街は程よいスケールで、街の奥にはいつもうっすら山がみえていて、海が街に寄り添っている。

いつも目にしていたはずの街がこんなにも、親しみ深い表情をしていたことに驚くと同時に、街が私たちを抱いてくれるような安心感を不思議と感じていた。

函館の街が私たちを抱いている。そして、またひとつ外側には、山と海があって、函館の街が抱かれている。だから、こんなに心地良いのか。

そんなことを思っていると、
心が、優しさみたいなもので満たされていた。

飛行機の時間が近付いてきて、
東京に戻るのか
と思うと、緊張感みたいなものが胸のなかに戻ってくる。

いつも、東京に戻るときには、
ほんとにまた東京の生活に戻れるだろうか
と思うのだが、
今回は、このまま父と離れてしまって、彼が大丈夫だろうかという気持ちが私のなかの大半を占めていた。

父に、

たまに波の音きくと落ち着くからね

母に、

たまに海に連れてってね

結局、それだけを言ってわかれた。

妻は、私の表情を察してか、なぜか黙っていてくれた。

飛行機の発着を待つロビーで、
妻と座りながら、不思議な気持ちが私のなかに広がっていた。


私たちは東京に戻ってまた人混みのなかに紛れるとしても、
これから弱くなっていく父を残していくのが函館で良かった。

彼の街が函館で良かった。

そんなことを話しながら、私たちは少しの安堵を抱えながら飛行機を待った。



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