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自由の考察「目的への抵抗」

こんにちは、ナカムラです。今回は「目的への抵抗」という書籍を紹介したいと思います。

以前、こちらのnoteで紹介した「暇と退屈の倫理学」の著者、國分功一郎さんの著作です。

本書は、國分さんが東大で行った「新型コロナウイルス感染症対策から考える行政権力の問題」という特別講座と、「不要不急と民主主義」という特別授業の2つを出発点とし、「人間が自由であるための重要な要素の一つは、目的に縛られないことである」という結論への過程をしるした書籍です。

このnoteでは、本書の主な論考と、個人的に気になったポイントを取り上げたいと思います。

1)本書の論考

冒頭で結論を提示しましたが、本書では「人間が自由であるための重要な要素の一つは、目的に縛られないことである」という一つの解に向けて、様々な切り口で論が展開されていきます。

炎上した一人の哲学者の論考

炎上したイタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンの紹介から本書は始まります。彼は、コロナ危機による「移動の自由」の制限についてこんな論考を発表しました。

「感染拡大を防ぐという理由で実施されている緊急措置は、平常心を失った、非合理的で、まったく根拠のないものであり、正真正銘の例外状態である。」

私たちはどこにいるのか?―政治としてのエピデミック

いかにも燃えそうな批判ですよね。ただ、この”燃えそうだな”という感覚、すなわち「コロナウイルスという恐ろしい感染症を拡大させないためには、色々な制限を受け入れざるを得ない」という前提に対して、アガンベンは警鈴を鳴らしたかったのだと、國分さんは語っています。

そのヒントが、上記引用箇所にある「例外状態」という概念です。これは「行政権力が立法権力を凌駕してしまう状態」を指しています。

本来、三権分立が成立している状態では、立法権力(国会)が法律を定め、その法律に基づいて行政権力(内閣)が政治を執行することで権力の偏りを回避し、国家の暴走を防ぐ仕組みがとられています。

ただ、コロナ禍においては感染症対策をいち早く推し進めるために、このバランスが崩れ、行政権力が優位に位置づけられた。この状態を疑念を持たず受け入れてしまってよいのか、というのがアガンベンの主張でした。

私自身、このアガンベンの主張を知って理解はできたものの、そうは言っても背に腹は代えられないのではないか、という印象をもちました。その上で、本書の論考のエッセンスは何か?という視点で以降にまとめたいと思います。

論考のエッセンス

1)「移動の制限」に潜む”支配への受容性”
我々にとってあまりにも当たり前となっている「移動の自由」ですが、逆に言えば「移動の制限」こそが、人が人を支配する上で重要な要素である、という点が指摘されています。つまり、どこにも逃げられないという状態が支配を成立させる条件だということです。

「不要不急の外出は避ける」というのは、たしかにあの当時においては真っ当な、然るべき措置だったのかも知れません。しかし「移動の自由」とは人間の自由の根源たるものであり、その制限に慣れてしまうことの危うさも一方で認識せねばならないのでしょう。

2)問いを立てることの大切さ
アガンベンの警鈴の要点は、例外状態そのものへの批判以上に、例外状態を疑いもせず受け入れてしまうことへの危機意識だったと述べられています。すなわち、この状態はどういう意味を持つのか?本当に正しいのか?という問いを立てること。哲学の本懐とも言えますが、ただただマジョリティを受け入れるのではなく、批判的に思考する姿勢の大切さが伺えます。

3)本当にコロナ禍だからだったのか?
先程少し触れた「不要不急」という言葉は「生命維持を最優先として、それ以外の活動は制限されるべき」という考えを表しています。これは「重大な目的が存在しない活動は、不要な活動である」という思想に帰結します。

國分さんは「目的にすべてを還元しようとする社会」という一節で、目的をはみ出るものを許さない論理が現代社会にはまん延しつつあるのではないか?と指摘しています。また、ハンナ・アーレントの言葉(下記)を引用して、その傾向の危うさにも触れています。

目的とは、手段の正当化である。

ハンナ・アーレント

これらは「目的に縛られることで人間は自由を失う」という結果に至ります。目的がなければ、好きなことができない、許されない。故に「人間が自由であるための重要な要素の一つは、目的に縛られないことである」という冒頭の結論が導かれるわけです。

2)個人的な注目点

本書は派生的な内容も豊富にあり、色々な発見がありました。その中から2つほどトピックを紹介したいと思います。

閉じられていることの意味
昨今の風潮として「何でもオープンであることの方が良い」という空気を感じます。私も、オープン=善、という価値観を受け入れていました。一方で「オープンであることの窮屈さ」みたいなものも感じていました。

本書の中で、國分さんは「オープンであることの限界」について述べられていて、例えば「授業」を取り上げてみると、そこで語られたことが即座にパブリックになってしまう場合、どうしても語り得ない・言えないことが出てくる、という話が登場します。

想定されているのは、例えばある国の政府について研究している人が、その政府についての批判的な議論を行うことが難しくなる、といったケースです。(同時に、クローズドであるが故のリスクとして、教室内での暴言・暴力の横行の危険性も取り上げています)

ここでも、オープン=善、という単純な思考で止まらず、デメリットはないか?クローズドであることの意義はないか?と考えることが大切だなと感じました。

ガンジーの言葉
アガンベンが行ったような、哲学者からの世の中への批判・論考というものにそもそも意味はあるのか(現実社会を直接変える行動ではないから)、という学生からの問いに、國分さんはガンジーの言葉を引用して答えていました。

あなたのすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。

マハトマ・ガンジー

ガンジーが行った「塩の行進」も、きっとこの精神に基づいていたのでしょう。そしてガンジーが示した非暴力のメッセージは、後世に大きな影響を与えました。一見すれば無意味で無力と思えるような行動も、「世界によって己が変えられないために」と貫き通すことで、場所を超えて、あるいは時代を超えて何かしらの影響を生み出すこともあるのだと思います。

実際、ガンジーの塩の行進だけでなく、中国・前漢朝の皇帝であった劉邦やハイチ革命を牽引したトゥーサン・ルーベルチュールのように、社会的弱者が歴史の転換点を生んだ例はいくつもあり、個人的にしっくり来る考えでした。

3)最後に

改めて、本書のメッセージは「人間が自由であるための重要な要素の一つは、目的に縛られないことである」でした。

私見ですが、これを体現していると強く感じるのは、少年漫画のキャラクターたちです。

『あひるの空』の主人公・車谷空は「バスケやるのに理由なんているんですかね?」と言いました。『ONE PIECE』のルフィは海賊王になりたいから海賊王を目指すのです。そして『HUNTER×HUNTER』のジン・フリークスは、「大切なものは、欲しいもの(目的)よりも先に来た」という言葉を残しています。

すべてを目的に還元しない、目的からはみ出ることを許容する、そういうスタンスの清々しさや、それが生み出す充実感を、私は漫画から学んできたように感じます。

以上、自由の考察「目的への抵抗」でした。最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

ナカムラ

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