礼服って、すごくいい。
いつからだろう、こんな気持ちになったのは。
大好きだったおじいちゃんの葬儀。
ぼくの記憶に残っているのは美しい礼服の貴婦人。
お焼香をする姿、軽く会釈する瞬間、凛とした佇まい。
なんて、色っぽいんだろう。
当時中学二年生のぼくは、そんなキレイな貴婦人に心を奪われていた。
どうして、ぼくは礼服に惹かれるのだろう。
ひとつは、葬儀という場での背徳感だろう。
普通、葬儀は悲しみを共有し故人を見送る場。本来、やましい気持ちなんて考えてはいけない。
そのいけないという空気感だからこそ、逆にそそられる。
ダメだとわかっているのに…
ダメだダメだと自分を戒める度に、その背徳感が余計にやましい想いを何倍にも掻き立ててくれる。
背徳感は一見罪深いものだという固定観念があるが、あれはまやかしでもある。いけないという感情こそが、自分の本当に求めている欲求にスポットライトを当ててくれる。
友達から恋愛の相談を受けていて、友達の好きな人を相談に乗っているうちに自分も好きになってしまう。いけない、と思っていてもその背徳感が余計に自分を後押ししてしまう。そんな経験をした人もいるだろう。
光あるところに影あり、道徳の心と背徳心は表裏一体。いけないことがあるから、良いことをしようと思えることもある。私の場合それがたまたま葬儀という特殊なシチュエーションだっただけのことなのだ。
もう一つは黒とシースルー。
透き通った白い肌を黒で包み込む。
さらに白く透き通った肌が美しく強調される。
こんなシンプルな仕組みに男は何百年も惹き付けられ続けている。
たったそれだけで
触れてみたいという想いを何倍にもふくらませてくれる。
ただそこまでなら、まだぼくも気持ちを押さえることができる。
シースルというスタイルでなければ。
見えそうで見えないけど、少しだけ肌を見せる。
それだけのアクセントで僕は100通りのいけないシチュエーションを
瞬時に妄想することができる。
このスタイルは、1960年代フランスのデザイナーが編み出したと言われている。特にイヴ・サンローランというデザイナーがセンセーショナルなシースルーファッションを数々と生み出し、一気に世界中に浸透した。
何をどう考えたら、こんなエロいことを思いつけるんだろう。
イブに言いたい。「君はなんて発明してくれたんだ、おかげで僕の想像力は無限に広がったよ」と。
男は意外と真実よりも幻想が好きだ。
僕も昔、付き合っていたと思っていた女性に「え、友達でしょ?」
と言われた。
そう、見えていない時の方が、見えてしまった時の方より何倍も楽しいのだ。
100%肌が見えている時よりも、
少しだけ見えてる方が遥かに気持ちを昂らせてくれる。
今、そろそろシースルはちょっと・・・と思っているすべての女性に伝えたい。
どうか、やめないで欲しい。
あなた方は本当に美しい、これからもちょっとだけ見せて欲しい。
心から切に願っている。
「喪服」は全然エロくない。
なぜだろう。礼服という呼び方にはものすごく惹かれるのに、喪服と言われると1ミリもそそられない。
たぶん、僕は少しだけ潔癖なのかもしれない。
喪服、未亡人というと大人なビデオやDVDによく出てくるシチュエーションだ。それが好きなニーズが根強いから、今もなくならないコンテンツなのだろう。
それ故にこういう表現が使われすぎている。
使われすぎてるが故、逆に背徳感が何も感じられなくなってしまった
とぼくは推測している。
今では喪服と聞くだけで、妄想力が減退してしまう。。
喪服と聞くだけで、なんだろう、ちょっと清楚さがかけてしまうのだろうか、、。
父の形見というと大切さや熱感が感じられる
父の遺品というと本当に死んでしまった悲しさが込み上げる。
同じ意味でも、言葉によって受けてのイメージが変わってしまう残酷さがあるのだと思う。
ぼくはどこかで、どうか妄想の中の礼服貴婦人は清楚な思考で、凛としていて欲しい。だからこそ、美しく気持ちが揺さぶられる。
もっと言うと真面目なのに、僕の前でだけ真面目ではない、、みたいな。
ぼくは何を言っているんだろうか。
ささ、話題を変えよう。
究極は赤ちゃんを抱いていてほしい。
わかっている。ぼくがどれほど危険な話題に触れようとしているのかは。でも、ここまで書いて、もう自分で自分を止められなくなっているのだ。
えーんえーんと泣く赤ちゃんと抱いている美しい礼服の貴婦人。
そんな方に淡い想いを抱いていいはずがない。
はずがない・・のに、頭の中は様々なことが駆け巡ってしまう。
神よ。あなたはなぜ私の頭をこのように創造したのだ。
私はあなたが憎い。。
美しい母、気品があり、きっと旦那さんもとても優しく包容力の
ある人なんだろう。
誰もが文句のつけようがない、円満な過程を築いている。
ただどんな完璧で幸せに見える人にも刺激という甘い誘惑は
まとわりついている。
道を踏み外すことがなさそうな人に、天から降り注ぐ一本のクモの糸。
そこから物語は始まってしまうのである。
ここらへんでそろそろ自分を止めたいと思う。
すでに手遅れだと思う人もいるだろうが、私はこれでも真面目・清楚で
通している。だからこれを仕事中に書いている。
そろそろ、次のミーティングの時間。さて真面目モードに戻らなくては。
しゅう独白シリーズ 第一稿はここにて。
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