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記憶のリレー

心で記憶しなさい

島田紳助はそう言った。
好きなアイドルの名前はすぐに覚えるしずっと忘れないのに、なぜ徳川将軍の名前は忘れてしまうのか。逆も然り。それは脳で記憶しようとしているからだ。本来記憶は脳で行うものだが、定着させるためには興味感心を植え付ける必要がある。じゃあ興味感心はどうすれば生まれるのか。好きなもののフィールドに置き換え結着させれば良い。全ての事物はどこかで必ず繋がっていると思っていて、例えば有名な登山家が「人生は登山だ」なんて言ったりするが、人生という大きな事物は切り口次第で別のものに言い換えられる。頭のいい人というのは、抽象化・具体化・比較・置き換えみたいなのが上手いんだと思う。そう簡単には出来ないがトレーニング次第で身に付くものだと思う。何かを思い出すとき体験や五感が付随してくることもある。この曲を聴くと受験に失敗した日を思い出すとか、この匂いを嗅ぐと父親の部屋を思い出すとか。ゲームや語呂合わせで学習する意義もここに含まれる。学生の頃はできなかったことが大人になって「たかが勉強くらいなんで出来なかったんだろう」と嘆くことがある。それは頭の使い方が変わったということだろう。これが「心で記憶する」または「感情で記憶する」ことではなかろうか。

記憶のリレー

つい先日お盆のこと。しみじみ感心した小話をひとつ。妻の両親・祖母らに随行して墓参りへ行きました。義父の運転で片道1時間ちょっと、後部座席(メインフロア)は義母・義祖母・妻の三世代交流でした。DJは助手席の義弟で洋楽HipHop/EDMを中心にWEGO店内でかかってる感じの音楽が鳴っている。デカめの音量もWEGOのそれでした。比例するように三世代チームもヒートアップ、車内全体のデシベルが上がっていくのが分かった。僕は最後部座席、妻の隣に乗らせてもらっていた。大きな会話の渦にビビりましたが何とか合いの手くらいは放り込めた。会話は餅つきかもしれない。目の前の餅米が固まらないようにリズムよく叩いて捏ねて水をつけて。この水をつけたり捏ねたりすることを合いの手って呼ぶらしい。まあ本来そこまで会話ってシビアなものじゃないけど、僕は常に会話に怯えているからこう思うのかね。

そんな行きの車内で三世代チームが「記憶」について面白い会話をしていた。
「なにわ男子の道枝駿佑くん色気半端なくない?とんだ20歳だな」みたいな話のときに「あれ岸くんってどのグループだっけ」と、全員が思い出すタイムに入って結局King&Princeの子だってことが後に分かったんだけど。義母が「俳優とかアイドルとかパッと出なくなったわ」の悩みに義祖母が「私も酷いもんよ」と合いの手。義母「だから大事なことは何でも娘(妻)に言っとくの」と言った。共感した義祖母も今までずっとこうしてきたかのように頷いた。それは記憶のリレーのようだった。年を重ねるごとに低下する記憶力に抗っても仕方がないので新しいHDDに移す行為である。または秘伝のタレのように次の世代に残していく。妻はとても記憶力が良く「あれ何だったっけ?」と聞くと大概覚えている。クローゼットとか化粧台とか散らかってるくせに海馬は整理されてるらしい。どの引き出しに何があるのかちゃんとラベリング・ファイル整理されているようだ。とはいえ人間なので記憶違いもあるところがかわいらしい。偏屈な見方をすれば母は娘を使っていることになる。使うといった表現は良くないけれど別に誰も損していないし、希望的で前向きなコミュニケーションだと思った。

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