動きすぎてはいけない、ならぬ、分人化しすぎてはいけない

タイトルについて 


本稿を読むにあたって、平野啓一郎氏の『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)による分人の三ステップを了解されているか、下記の私の投稿を読まれていることを推奨します。

https://www.instagram.com/p/CqKxKsgPfm5/?igshid=YmMyMTA2M2Y=

さて、ややトリッキーなタイトルを付けさせて頂きました。否定形になっているので、「もしや、分人主義を批判しているのか?」と思われそうですが、違います。

むしろ、本稿は「分人」の考えを前提として(つまり、賛同して)書かれており、その応用のようなものです。

もう少し、タイトルについて説明させて下さい。前段にあたる「動きすぎてはいけない」という言葉。
これは、千葉雅也氏の『動きすぎてはいけない』(河出文庫)に由来しています。

もし、この『動きすぎてはいけない』を読まれた方は、私がここで何を言いたいのか察しがつくと思いますので、ブラウザバックで大丈夫です。
もし、未読かつ興味を持たれた方は、お付き合い下さい。

分人化しすぎると、どうなる?

分人化に至るまでは、「社会的分人」「グループに向けた分人」「特定の人に対する分人」の三ステップが必要ということを読者の皆さまは、抑えているかと思われます。

そして、何より重要なのが「分人化は失敗する」という、つまり、「社会的分人」「グループに向けた分人」で止まってしまうということが、ありうるという点です。

ここで一つ想定してみて欲しいことがあります。接する人の殆どに対して、分人化を成功させる(つまり、失敗しない)三段階目までいくとどうなるでしょうか?

平たい言葉で、かつ、重要な答えとして、「疲れる」というのが結論です。
例えば、学校のクラスメイト全員に対して、分人化するとどうなりますか?

A君に対しては、A’の分人、B君に対してはB'の分人、C君に対してはC’の分人、そして、さらには、A君とC君の同席した際には、分人の衝突からA'C’の分人と、様々な分人が顔を出します。

あっちこちで、色んな顔(分人)を出してしまうわけで、これが結構なストレスなわけです。
実際、友達が多くて、積極的な人気者の子が陥りやすい悩みかと思われます。

では、この様な「疲れ」「ストレス」を避けるにはどうすればよいのか?
それが、タイトルにある、「分人化しすげてはいけない」です。

分人化しすぎないとは?

「分人化しすぎる」状況というのは、先程紹介した千葉氏の言葉に置き換えると「接続過剰」という現象です。
つまり、「つながりすぎている」「やりすぎている」と。

この「つながりすぎ」「やりすぎ」という言葉を、「熱死」「オーバードーズ」という言葉に換言し、次の引用をご覧ください。

熱死とは、あらゆる事物への接続過剰のことに他ならない。オーバードーズの回避とは、生成変化を次に展開させるために、接続過剰を控え(略)

千葉雅也『動きすぎてはいけない』、河出文庫、2017、64頁

分人化のし過ぎも、ここで言われている「熱死」「オーバードーズ」に当たるでしょう。

分人化のし過ぎ(=接続過剰)を避けるにはどうすればよいのか?

先述の引用は、下記のように続きます。

切断を行使することだー非意味的に。或るいい加/減で。

前掲書、同頁

切断、即ち、どこか加減の良いところで一旦立ち止まるべし、ということを言っているわけです。

気になるのは「非意味的」というこの言葉。
文字通り、「意味は無い」ということ。

もう少し、言うと「偶然性」の意を含むものです。
「なんか、疲れた」「なんか、これぐらいでいいかなと思えた」「なんか、ちょど良さそうな感じ」
こういった感覚が「非意味的な切断」の例です。

この非意味的な切断を超えて、「まだまだー!」と熱くなり、突き進むと、接続過剰による熱死が待ち受けていことになります。

程よい無関心へ むすびに変えて

接続過剰しない、分人化しすぎないということは、即ち「程よい無関心・無関係」を推奨するということです。
実際、千葉氏は、「無関心・無関係」に重きを置いている哲学者です。※1

※1『現代思想入門』(講談社現代新書)74-75頁、『アメリカ紀行』(文春文庫)103頁)

そして私も、この程よい無関心を促していきたいという考えの持主です。
故に、今回、「分人主義」の考えを応用して、この点が訴えることが出来るのではないかと思い、投稿させていただきました。

なぜ、この様な過剰接続、分人化の過剰が起きるのかについては、多方向から考えられそうですが、一つ挙げておくと、「無関心さを許さない」感情的要因による集団づくり(優勝を目指して皆で、仲間として頑張ろう、的なアレ)があると思います。※2

※2この点については、中根千枝『タテ社会の人間関係 単一社会の理論』(講談社現代新書)をご参照ください

より良い人生を過ごしていくうえで、分人化することは、重要なことだと思います。しかし、あちこちで分人化してしまうと、窮屈な閉塞感にさいなまされ、窒息死してしまいます。

是非、社会的分人(第一ステップ)や、グループに向ける分人(第二ステップ)に留まることを恐れないでください。

PS.
本稿は、私の考えであり、著者の平野氏がどう考えるのかは、不明です笑
あくまでも、これらは私見ですので、その点は混同されないようご注意ください。

参考文献
千葉雅也 著『アメリカ紀行』文春文庫、2022
千葉雅也 著『動きすぎてはいけない』、河出文庫、2017
千葉雅也 著『勉強の哲学』、文春文庫、2020
中根千枝 著『タテ社会の人間関係 単一社会の理論』、講談社現代新書、1967
平野啓一郎 著『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、講談社現代新書、2012

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