【読書の記録】サナトリウム小説他

【自戒】記録は溜め込まない方がいい。

【注意】ネタバレ


ソラリス/スタニワフ・レム

ロシア文学と現代の授業にて紹介されたSF小説。

タルコフスキーというロシア人監督作「惑星ソラリス」が授業で言及されていたが、原作にあたる本作はポーランド人作家によるもの。映画は未視聴。


内容
意思を持つと考えられる「海」に覆われている惑星ソラリス。
ここには先に降り立った研究者がいたが、惑星で起きた異常はわからない。
主人公・ケルヴィン、研究者のスナウト、サルトリウスに加え「海」に作り出された存在を中心に未知の知的生命体(海)との遭遇を描く。

感想
面白い(おすすめ)ポイントが冒頭と中盤以降で異なる。もちろん重要なのは中盤以降で、前半はそこへの導入なのだろうが。

読み始めてしばらく、ページを繰る手を突き動かしたのは「気持ち悪さ」からの逃避衝動だった。SFというよりホラーを読んでいる気になった。
怖い。意味わかんないから早く先まで読まねば。

ソラリスの混沌の中で手の内を隠し合う研究者らとの交流、「海」とのコンタクトの中で様々なテーマが提示される。

ちなみに、付録の解説によると映画版は「ラブ・ロマンス」の側面が強調された締め方になりレムには不満があったらしい。(様々なテーマの一部にラブストーリーがあることには違いがない)


ラブっぽい

これほどのことが起こったのだとすると、この先、何が起こるかわかったものじゃない。ぼくはあした、緑色のクラゲになっているかもしれないんだよ。それはぼくの力ではどうしようもないことだ。
でも、自分たちの力でできることは、二人でいっしょにやっていこう。それで十分じゃないか。ーp. 275

哲学?

いま必要なのは、勇気を十分持って決断をくだし、その決断に対して自分で責任が取れる一人の人間なんだ。でも大部分の人たちは、その種の決断をありきたりな臆病だと思ってしまう。なにしろ、それこそ退却であり、断念であり、人間にふさわしくない逃避だから、というわけさ。ーp. 300

レムは未知との遭遇で必ずしも私たちの方法でコンタクトを取れると考えるのを当たり前だと思うな、といったメッセージを発しているようだった。

わからないものはわからないままで致し方ない。理解を超えたものを自分たちの枠組みで無理に歪めて捉えるのはどうなのだろうか。といった問題提起が主題の一つにある。


更に興味深い

あそこでサルトリウスが創りだそうとしているのは、いや、あの裏返しのファウストが捜し求めているのは、不老不死の薬の反対、つまり不死を治す薬さ。ーp. 346


魔の山/トーマス・マン

後に読んだ作品に関連するので本記録中にリストアップした。記録・感想自体は以下記事にて



風立ちぬ、菜穂子/堀辰雄

ノルウェイの森を動機に魔の山。ついで「サナトリウム小説」としておすすめされたのがこちら。

「風立ちぬ・美しい村」と「菜穂子・楡の家」の2冊。合わせて8本の短編(あるいは中編)を読んだが、軽井沢の療養所(サナトリウム)の存在が色濃い。登場人物がリンクした連作となっている。(2冊の間に関係はないかな)

風立ちぬ:男女が出会って、一緒になって、妻が病床に伏し、死別するまで。死を目前にして一層生が輝いてくる瞬間が印象に残った。

菜穂子:今回病んでいるのが菜穂子。愛のない結婚をして夫圭介、姑と3人暮らしをしていたがサナトリウムに入ることになる。圭介は現代風にいうとマザコンの印象を与える。菜穂子は3人暮らしで疎外感を感じていた。かえってサナトリウムでの暮らしで心の安静を得た。入院後に起きる夫の見舞い、サナトリウムからの脱走といったイベントで、風立ちぬにはなかった夫婦間の悲壮感が漂ってくる。心が強いがずっと孤独を抱えている、哀れなヒロイン。

菜穂子の個人的クライマックスシーンから。

大雪の中サナトリウムを抜け出し、東京に残る夫圭介の元へやって来たが、彼の口から期待した「二人で暮らそう」という言葉はなく、母に迷惑がかかるからそういうのはやめてくれ、と諭された菜穂子。

 彼女は今まで自分が何か非常な決心をしているつもりになっていたが、いま夫とこうして差し向かいになって話し出していると、なんだって山の療養所からこんなに雪まみれになって抜け出して来たのかわからなくなり出していた。

そんなにまでして夫の所に向こう見ずに帰って来た彼女を見て、一番最初に夫がどんな顔をするか、それに自分の一生を賭けるようなつもりでさえいたのに、気がついた時にはもういつのまにか二人は以前の習慣どおりの夫婦になっていて、何もかもが有耶無耶になりそうになっている。

ほんとうに人間の習慣には何か瞞着させるものがある。

 菜穂子はそう思いながら、しかしもうどうでもいいように、夫の方へ、何か見据えているようなくせに何も見ていないらしい、例の空虚な眼ざしを向け出した…ー菜穂子 p. 245


恋愛とも、幸いにして病床ともあまり縁がない人生を送ってきたため響くところが響いていないというか、私にはあまり深い印象を残さない作品になった。

時間の記述を行った魔の山との共通点など、気づいた部分をいくつか記録する。

 私は、私たちが共にした最初の日々、私が節子の枕もとに殆ど附ききりで過したそれらの日のことを思い浮かべようとすると、それらの日々が互に似ているために、その魅力はなくはない単一さのために、殆どどれが後だか先きだか見分けがつかなくなるような気がする。
 と言うよりも、私たちはそれらの似たような日々を繰り返しているうちに、いつか全く時間というものから抜け出してしまっていたような気さえするくらいだ。ー風立ちぬ p. 101
一日は他の日のように徐か(しずか)に過ぎて行った。ー菜穂子 p.174

サナトリウム特有の均質な生活の中である日、ある時間と他の時間が境界をなくして溶け合っていく感覚。

魔の山でグダグダと書かれていた時間観念と似ている。

上の引用で続く文章

そして、そういう時間から抜け出した日々にあっては、私たちの日常生活のどんな些細なものまで、その一つ一つが今までとは全然異った魅力を持ち出すのだ。ー風立ちぬ p.101

その均質な中で、かえって一つ一つの物事が魅力を持つことに気づく。この点が強調されているのは相違点に感じられた。


それをともかくも一応書き了えるためには、私は何か結末を与えなければならないのだろうが今もなおこうして私たちの生き続けている生活にはどんな結末だって与えたくはない。いや、与えられはしないだろう。むしろ、私たちのこうした現実をあるがままの姿でそれを終らせるのが一番好いだろう。
 現在のあるがままの姿?……私はいま何かの物語で読んだ「幸福の思い出ほど幸福を妨げるものはない」という言葉を思い出している。ー風立ちぬ p.136

男主人公の手記。ノルウェイへの影響が見えてくるあたり。


メインキャラの男女以外にも色々変な繋がりの人間が出てくる。人生の空虚を見つめて惑いまくっている。

「それにしても、なぜこんなにまでなりながら生きていなければならないのかしら?」ー菜穂子 恢復期 p.67 
「どうして生きなければならないんだ、こんなに孤独で?こんなに空しくって?」ー菜穂子 p.231 (都築明)
「おれの一生はあの冷たい炎のようなものだ。ーおれの過ぎて来た跡には、一すじ何かが残っているだろう。それも他の風が来ると跡方もなく消されてしまうようなものかもしれない。だが、その跡にはまたきっと俺に似たものがおれのに似た跡を残して行くにちがいない。ある運命がそうやって一つのものから他のものへと絶えずに受け継がれるのだ。……」ー菜穂子 p. 236 (都築明)



ファウスト/ゲーテ 手塚富雄訳

オスカーワイルドを読んだ際に戯曲にはやや苦手意識を覚えたが、新訳(といっても、いつのものだったか確認するのを忘れてしまったが)ということもあってか非常に読みやすく、難解さはあまり感じなかった。

悲劇第一部・悲劇第二部の2冊構成。

第一部はゲーテの若い頃に、第二部はかなり間を置いて晩年に書かれたものらしい。


内容

とても賢い人間ファウストが悪魔メフィストフェレスと契約を交わし、若返って色々経験していく話。
メフィストはファウストの望みをなんでも叶えてやる。契約満了条件はファウストが満足し、「時よ止まれ」的なフレーズ(※)を口にすること。この時、ファウストの命は終了し魂がメフィストの手に入るというわけだ。

※冒頭でメモを取り忘れたが、ファウストの最期はこう書かれている。

そのとき、おれは瞬間にむかってこう言っていい、
「とまれ、おまえはじつにうつくしいから」と。ー第二部 p.568

宮崎駿ですね。私は美しくないのでさっさとお暇させてくれや。


契約の動機は実際には少し違うのだろうが知の泉に片目を差し出したオーディンの姿を思い出した。悪魔との契約なんてこんなのばかりなんでしょうね。(北欧神話に悪魔は出ないか)


ファウスト全体

悲劇だなぁ、と思う部分は第一部に集約されている。右も左も知らない若い娘を不幸に突き落とす最低男。悲劇が好きな方は是非どうぞ。

第二部でファウストがヘレナとの息子を失い、更にヘレナを失う頃にはもう、ファウスト自身をめちゃくちゃ貪欲でかなり勝手な人間と認識していたので、ファウストに憐れみの目が向かない。というか息子の育て方ちょっと間違えてない?くらいに思ったので「悲劇」としての力が弱かった。個人的に。


当時の社会に色々物申した際どい話などは、解説を読んで感心したが、そこまで深く理解できていないので省略。ゲーテ、ファウストの優れた点が多くあるのはわかった。


更に、解説にて訳者は若いときに気づかなかったファウストの魅力に、歳をとってから改めて気づいたと語っている。また、全ての若者がこの作品の真の面白さに気づけないだろうとも。

これは悪魔メフィストが老たるものの視点を持っているから。ファウストとメフィスト、学生と教授などの問答(ロシア的に長い問答ではないのでついていけた)を見ていると、古今東西どこでもありそうな「若者の思い上がり」とそれを見守る年配者の構図が浮かび上がる。

訳者はゲーテの精神は早くから成熟していたと述べていたが、
成熟した若きゲーテがメフィストに幕切れや場面転換でそっと囁かせた言葉の本当の意味がお子ちゃまの私にはまだわかっていないのだろう。

そうでしょう。気になってしょうのないことが一つあれば、
人生全体が厭になる。ー第二部 p. 542 メフィストフェレス

わかるような、深くはわかっていないような。まだこの作品の魅力を全て回収できた気がしない。

いつかもう一度読みたい本のリストに名を連ねた作品になった。


個人的に印象に残ったところ

何を読んでも出てきそうな「生きるとは」的なトピックス

何をするかは大切な問題です。けれどもっと大切なのは、どれだけ熱心にそれをするかということです。ー第二部 p. 197 ホムンクルス
わたしたちを人格として不滅にするのは、大きな手柄を立てることだけではありません。信義をつらぬくこともそうなのです。ー第二部 p. 446 パンタリス
どんな人にせよ、絶えず努力して励むものを、
わたしたちは救うことができます。
ー第二部 p. 598 天使たち

違うものたちが同じことを言ってるように思われる。

つまり熱心に、導かれる結果が大したことなくても絶えず努力して卒研やれってこと。駄文を錬成している場合ではないのである。


更に上述p. 568の引用の続き

おれの地上の生の痕跡は、永劫を経ても滅びはしない
こういう大きい幸福を予感して、
おれはいま最高の瞬間を味わうのだ。ーp. 568

それにより、永久の幸福を得る、満足した人生を成し遂げると。この感想が正しいのかどうかは知らない。


魔の山の下地として

この章タイトルの意味を知りたい人がいたら、こちらをご参照ください。


ファウストの一部に錬金術的に生まれ、ガラスの中に生きる小人「ホムンクルス」が肉体を持つ真の人間を目指す一幕がある。

ここが、サナトリウムで時を過ごして成熟する『魔の山』のハンス・カストルプと共通する(というかゲーテの方が先なので、マンがこれを踏襲している)という。


私がこの繋がりを知らずに魔の山、ファウストと読んできてもホムンクルス=ハンス・カストルプとは気づかなかっただろう。

しかし、符合を読んでいくと確かに対応があることがよくわかる。

ホムンクルスの方が「真に人間として生まれたい」趣旨をはっきりと述べている。

この目的が周囲に知れているので、ホムンクルスが火成論者、水成論者に積極的に話しかけて、教えを請うのが自然に受け入れられる。


これを踏まえると、ただのモラトリアム怠惰にも見えた魔の山ハンス・カストルプがサナトリウムの人々(セテムブリーニ、ナフタ)の大演説に熱心に耳を傾けるの理由がわかってくる。

他の幾らかの住民と違って解剖学、植物学などの知識を蓄えていくのも「人間としての成熟を目指す」がゆえの豊かな知的好奇心に基づくのだろうと理解できる。


更にホムンクルス自殺より後、第四幕初めのタイトルは「高山」。

ファウストが雲となったヘレナの衣装に乗って突き出した大地の上に降下したシーン。

ファウストと合流したメフィストは地獄の底で見たのと同じ岩がこの高山にあることを見つける。

山の成立を実際にその目で見たメフィスト、それ(本当の山の成立)を知っている現地住民に言及。

これは奇蹟だ、魔王のしたことだと言うんです。
だからわたしらの威をおそれる巡礼は、杖をたよりに、
魔の岩や魔の橋をおがみに出かけるじゃありませんか。ー第二部 p. 452 メフィスト

ここまできて、魔の山とファウストの関係性がもろに見えてきた。


蛇足だが、数少ない私の知っているドイツ作品にオペラ「魔笛」がある。

ドイツ的な「魔」の意味を正しく理解したいなぁと思った。


小休止

読むのが遅いのはもう諦めてもっと丁寧に、話を途中でまとめながら読む努力をすべきかもしれないと思った。

チーム三部作までまとめようと思ったが、文量が多くなってしまうのでここで小休止として公開。

次で多分年内最後の読書記録。


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