『福田村事件』と天皇

本来なら、先週、関東大震災からちょうど100年目の9月1日に公開された映画『福田村事件』の感想をストレートに書くべきかもしれない。


しかし、いやだからこそ、自分は書きたい。何を? 天皇の問題を。

そう、ここのところ、睡眠時間さえ削って熱中して読んでいたのが、田中清著『天皇の戦争責任』(岩波書店)だった。


この天皇の問題こそが、『福田村事件』、つまり朝鮮人・被差別部落民・社会主義者たちを、軍人でも警官でもない「普通の日本人」たちが虐殺した事件の根底にあるからだ。


1

自分のような1960年代生まれの人間が「天皇」を強く意識した最初は、おそらく1988(昭和63)年のことだっただろう。9月19日、天皇(裕仁)は大量吐血し重体に陥る。以後は毎日、テレビで、NHKも民放各社も、天皇の容態(体温と「下血」の量)を知らせるようになった。この年の秋は長雨で、普及し始めた透明のビニール傘を差したアナウンサーが、二重橋の前に佇んでいる映像をよく覚えている。


そしてその頃から、重苦しい「自粛」ムードがこの国を覆うようになった。助手席の井上陽水が笑いながら「みなさん、お元気ですか〜?」という日産セフィーロのCMで、その言葉だけが消された。各地のイベントや秋祭りは取り止めになり、有名人でもなんでもない一般人の結婚披露宴さえ中止になり、「おめでとう」「祝」「誕生」の言葉が消えた。こうした、なんとも言えない重圧が続いたのは、振り返れば翌1989年1月7日の崩御までの4ヶ月程度だったが、実感としては半年から1年ぐらいに感じた。


崩御のニュースで、ああやれやれ、これで重苦しい日々からもおさらばできる、と思った自分は、その日(土曜日だった)、開放的な気分になって会社をズル休みした。ところが、その日から丸3日間、民放テレビは全局CMをカットし、NHKともども悲しげなクラシック音楽をBGMに、昭和天皇追悼番組を放送した(まだCSはなく、BS=衛星放送は本放送開始前で、実質地上波しかなかった)。どの局も看板アナウンサーと皇室ゆかりの人間を出演させ、昭和天皇の映像を繰り返し流しながら、彼がいかに素晴らしい人格者だったかを延々と語り続けた。


そこで異口同音に言われていたのが、「陛下は徹頭徹尾、平和主義者だった」というもの。台頭してきた軍部に押し切られ、やりたくない戦争を始めたが、最後は国民のことを思って戦争終結の決断をした、と。つまり開戦は自分のせいではないが終戦は自分が決めた、というわけだ。


自分が物心ついた1970年代初め頃、1901年生まれの裕仁はすでに70歳で、外見からも老人としか見えなかったので、それまではなんとも思わなかったが、この押し付けられた昭和天皇追悼(というより賛美)番組を眺めているうちに、どうしようもなく違和感が湧いてきた。


それからちょうど1年後の1990年1月、長崎市の本島等市長(当時)が銃撃され重傷となった。犯人は右翼団体の男で、本島市長が1988年12月、つまり「自粛」期間中に「天皇に戦争責任はある」と議会で発言したことへの報復だった。この事件はかなり大きく報じられ、天皇の戦争責任問題自体も再燃しかけた。


その当時から自分は、「なぜ当たり前のことを言っただけで殺されかけなければならないのか」と思っていた。昭和天皇は大日本帝国憲法で「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」「天皇は国の元首にして統治権を総覧し」「天皇は陸海軍を統治す」と規定されている。つまり、日本の最高権力者だった。ゆえに、あの戦争に対する一切の責任を負うのは当然だと。


いや、憲法の条文以前に、自分もそれまで、いろんな映画や漫画などで「あの戦争」に触れていたから、日本の軍隊は「天皇陛下」という魔法の一声で、上級兵が下級兵にどんなことをしても正当化されることを知っていた。いや軍隊だけではない。戦前・戦中の一般人も、「天皇陛下に対して恥ずかしくない」ように質素を旨とし、子は親に従い、礼儀作法をわきまえることを強いられていた。もちろん社会主義などの「自由思想」を持つなどは論外。それもこれも、日本国民全員が「天皇の赤子」であるという前提があってのことだ。そしてあの戦争は、天皇自身がどう思っていようと、天皇陛下の名の下に始められた戦争=聖戦(正義の戦争という意味でもある)であり、だからこそ男子は兵隊となって「お国」=天皇陛下を守るために命を捨てることが最大の名誉とされていたのだ。「天皇陛下の名の下の戦争」の責任が、天皇自身にないはずはないだろう、と。


ただ、それでも自分は、昭和天皇には戦争を遂行する軍部や政府に対する「監督者責任」というものがあったのにもかかわらず、それを怠った、あるいはその能力に欠けていた、という程度の認識だった。もしかすると、学生時代に母親から「天皇が軍部に引きずられたから戦争になった」と聞いていたのがどこかに残っていたのかもしれない。しかし、よく考えてみれば、現在83歳の母は、敗戦時でもまだ5歳。戦争の理由などわかるはずもなかった。


そんな自分の大甘な認識をハンマーで叩き割ってくれたのが、冒頭に紹介した『天皇の戦争責任』である。


この本が画期的なのは、執筆時点(初版は1975年、現代評論社より刊行)までの昭和天皇周辺人物が残した日記、メモなど、公に刊行されたものを縦横無尽に使って、昭和天皇が戦争中、どんな発言をしたか、どういう行動を取ったかということを実証している点だ。よって、1975年以降に刊行された『昭和天皇独白録』をはじめとする証言集は採用されていないが、逆に敗戦時から最大でも30年しか経過していないので、証言者の記憶も生々しく、その後に出た回顧録よりも信用できる気がする。


まず、自分がハッとしたのは、昭和天皇は母が認識していたような「軍部に引きずられて戦争を始めてしまった」のでは全くない、ということだ。


現在は、日本の戦争というと1941年12月8日、つまり真珠湾奇襲攻撃に始まる対英米戦争がまず言われるが、それよりはるか以前、1928(昭和3)年の関東軍による張作霖爆殺事件をきっかけとする日中戦争から続いているものだ。これは裕仁が天皇に即位して2年後の事件だが、彼は病弱な大正天皇(嘉仁)に代わって1921(大正10)年より摂政を務めていたので、それ以前の日本から満州への出兵についても自ら許可している。


さて、この張作霖爆殺事件は、当時、関東軍が中国人による内乱のように見せかけていたものだった。この事件の後、当時の首相だった田中義一は天皇の怒りを買い、辞任する。しかし天皇が怒った理由は、関東軍が嘘をついて張作霖の殺害を中国人のせいにしたからではなく、事件について田中が国民に嘘をついたことを問題にしたのでもなく、田中が天皇に嘘の報告をしたこと「だけ」だった。これは、天皇が鈴木貫太郎侍従長(のちに首相)へ語った言葉として記録されている。


以降の戦況についても、その時々の首相や侍従長、大臣が逐一、天皇に報告を上げているさまが綴られている。天皇はその報告を義務的に聞いているのではなく、むしろ熱心に聞き、時には細々と戦術などの提案・指示さえしている。そして、ここが問題なのだが、例えば日中戦争で南京占領に成功したりすると、「よくやった」という詔勅(天皇が国民に対して自らの意志を示す公文書)をその時々で出し、日本軍及び国民の戦意を高めている。それは、その後の真珠湾攻撃やシンガポール陥落をはじめとする対英米豪戦争についても同様だ。それらは、誰かに強いられてやっているわけではなく、むしろ自ら積極的に戦争に関与している。文字通り、「陸海軍を統治」する「国の元首」にふさわしい振る舞いであり、とても「平和主義者」とは呼べない。


その姿勢は、「天皇は反対の立場だった」とよく言われる日米開戦の決定についても同じだ。1941年9月6日の御前会議で天皇は「四方の海 みな同胞(はらから)と思う世に など波風の立ちさわぐらむ」という祖父、明治天皇の御製を詠んで戦争回避を訴えた、と言われている。しかし実際は、軍部と政府の戦争遂行案を、一言も文句を言わず裁可(許可)している。


おそらく、多くの人が、御前会議とは形だけで、天皇は臨席こそするが基本的には口を出さないものだったと思っているのではないか。自分もそうだったのだが、残された証言によると、実際は盛んに発言しているし、自ら会議の開催を提案もしている。そして、日本は英米に勝てるのか、勝てるとしたらどうやって勝つか、ということを盛んに聞いているのである。


しかも、それから真珠湾奇襲までの3ヶ月間、天皇は何も行動しなかったわけではない。日米交渉継続派の近衛文麿が首相を辞したいと申し出ると、木戸幸一内大臣の進言を容れて、積極開戦派の東条英機を首相兼陸相に据えた。一説によれば、東条を首相にすることで、逆に軍を抑え、非戦に持ち込むという作戦だったとされている。しかし、当の近衛が、その頃は天皇も開戦論に傾いていたので、自分は諦めて辞職したと述懐している。実際に天皇は開戦まで幾度も開催された御前会議に臨むだけでなく、各方面から個別に話を聞いており、これなら勝てそうだと判断したからこそ、開戦の詔書を出したのである。


以後は繰り返しになるので省くが、昭和天皇は、その後も戦況をつぶさに聞き、質問もしておきながら、冷静に戦況を分析できなかった。結局は、先を見る目がなかったのだと思う。たとえば裕仁が御製を紹介した明治天皇にしたところが、日清・日露という戦争をやっているわけで、平和主義者でもなんでもない。ただ、この2つの戦争は曲がりなりにも勝利した。その理由の一端は、やはり明治天皇に見る目があったのだろう。どこで戦争を終わらせるかということを含めて。昭和天皇は、戦況自体を正確に捉えられなかったし、旗色が悪くなっても引くことを知らなかったし、リーダーシップも取れなかった。それは「陸海軍を統治」する「国の元首」としては明らかに失格である。


しかし、いざ敗戦となっても裕仁は退位しなかった。周囲は当然退位するものと思っていたにもかかわらず、である。


この『天皇の戦争責任』を読んで最も驚いたのは、すでに敗色濃厚となっていた1944(昭和19)年6月に、近衛文麿と木戸幸一が、戦争終結(降伏)と天皇退位について話し合っていたということだ。この内容は『近衛日記』に書かれているそうだが、「戦局の推移に鑑み、これ以上国民に犠牲を強いる事は歴代君臣の情義に照らし忍びざる旨を宣わせらるる事」と、その1年後、実際に出された終戦の詔書(天皇が出す公文書)及び、例の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」という玉音放送の原型が、すでにここで作られている。結局、この早期和平(降伏)案は天皇本人には伝わらなかったようだが、この時期に戦争を集結できていれば、翌1945年3月10日の東京大空襲をはじめとする本土空襲も、沖縄戦も、広島・長崎の原爆投下も避けられ、多くの人命が助かったのである。


それから30年後、この『天皇の戦争責任』が出版された1975年の10月、天皇は記者会見で戦争責任について問われ、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」と答えている。


「あなたの戦争責任は」と問われて「言葉のアヤ」と答える。それが昭和天皇という人間であったことを、日本人は忘れてはいけない。


国を滅ぼすようなことをしでかした最高権力者が、何の責任も取らなかった。これが日本という国を誤らせた最大の原因だと思う。もし、敗戦と同時に裕仁が退位していたら、そこで日本は完全に新しく生まれ変われたのではないかと思う。


話は『福田村事件』に戻る。


この事件が起きたのは、1923(大正12)年9月である。

先に書いたように、この時期はすでに裕仁が摂政に就いている。

実質的には「昭和」が始まっているわけだが、大正天皇が「脳病」(脳膜炎)だというのはすでに国民の多くが知っていた。そして摂政の裕仁は弱冠22歳。つまり、この時期は、日本社会において、天皇が極めてあやふやな存在になっていたと考えられる。


また、映画の中で、被差別部落出身の若者が「水平社宣言」を諳んじる場面があるが、この「水平社宣言」が発表されたのが、前年の1922年3月。

これは偶然ではないと思う。

つまり、それまで確固としてあった(と思われていた)天皇を頂点、穢多非人(部落民)そして朝鮮人を底辺とする階級社会や家父長制が、揺らぎを見せ始めてきたのがこの時期だった。

そこへ、かつて経験したことのない巨大地震がやってきた。


この映画の出演者たちが、「集団心理の怖さ」を語っている。

もちろんそれも間違いではないだろうが、それよりも、社会が変わっていくことへの怯えが、在郷軍人はじめ一般住民にも、無意識のうちにあったのではないかと思う。


そしてその怯えは、100年後の現在も存在する。

100年前の朝鮮人虐殺を認めない。

どころか現在でも平気で(在日)コリアン・中国人を差別する。

同じ日本人でもLGBTQの存在を認めたがらない。


現在の日本人の中にも、皇室を頂点とする純日本人(そんなものはいないのだが)が上で、(在日)コリアンや中国人が下、という意識が根強く残っているのではないか。

もちろんその動機としては、100年前とは違って中国や韓国が経済的に発展し、いつの間にか日本が追い抜かれている、という事情もあるにせよ。


一つだけ確かなことは、100年前の日本が天皇制社会でなければ、

『福田村事件』は起こっていない、ということだ。

誰も責任を取らない天皇制社会が、朝鮮人・中国人・部落民・社会主義者を殺したのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?