小説「或る夫婦の話」

 二週間程前のことだ。とある男女が結婚した。
 男の上司と女の親が知人同士で、縁あって知り合った二人だ。所謂お見合い結婚というやつである。
 二人とも適齢期になっても異性の影が見えないからと、それぞれを案じた周囲の人間が画策した見合いだった。元々乗り気ではなかった男だが、女と出会って態度を一変させた。
 パステルカラーが蔓延る中で、女は目の覚めるような紺色のスーツを着こなし、颯爽と登場した。直前まで世話人たる上司にネクタイが曲がっているだの、裾が見えているだの、様々指摘されていた男とは大違いだった。
 女は特別目を引くような顔立ちではなかった。しかし、目に映る物全てを見抜かんとする鋭い栗色の目と、隙のない外見とは裏腹に屈託なく子供の様に笑うアンバランスさに、男はすっかりやられてしまった。奇跡的に女も男を気に入ったようで、話はトントン拍子に進み、半年足らずで婚姻関係を結ぶ運びとなった。
 女に夢中だったとはいえ、いきなり共に暮らすのはと及び腰だった男だが、意外にも女の方が乗り気で、あれよあれよと言う間に新居を決め、引っ越しをし、二人で暮らし始めて一週間で入籍を迫った。
「もう大体分かったから大丈夫」と、男の名前を書くだけとなった婚姻届を取り出していた。
 尚も渋る男に配慮してか、それから一か月程二人で暮らした。毎夜婚姻届をちらつかされたらどうしようかと怯えていた男だが、幸いにも女からは何も言われなかった。
 がしかし、男にかかる圧は女からのものだけではなかった。上司と顔を合わせる度、早くしろとせっつかれた。終いには遠回しな脅しまでかけられ、男は腹を決めて婚姻届に名前を書いた。
「では提出に行きましょう」
 女に引き摺られるようにして役所に行き、二人で届を提出した。こうして二人は晴れて夫婦となった。残暑が厳しい頃だった。
 流石に式場の予約は取れず、式は未だ挙げていない。だからという訳ではないが、男はあまり実感が無かった。共同生活も、ただ共に暮らしているというだけで、夫婦らしいスキンシップと言えば手を繋ぐことくらい。それすらも男にとっては覚悟が必要なことだった。
 籍を入れてから二週間。二人で暮らし始めてからもうすぐ二か月。男は日に日に帰途に着く足取りが重くなっていた。最初はありもしない残業で誤魔化していたが、
「とっとと帰れこのクソボケ」
 終業後文字通り尻を叩いてくる上司のおかげで、すぐにその手は使えなくなった。寄り道をしようにも、そんな度胸も無い男は、出来るだけ歩調を緩めて時間をかけて家に帰ることくらいしか出来なかった。
 生温い夜の空気を浴びながら、男は溜息を吐く。
「やっちまったなあ……」
 女に惚れこんだと言っても、男に結婚の意思は無かった。煮え切らない男の態度に業を煮やした上司がやっとのことで本音を聞き出し、結婚に乗り気な女側に勝手に返答してしまったのが運の尽き。男はとぼとぼと肩を落として歩く。
「これからどうしよう……」
「家に帰れば良いのでは?」
 独り言に返事をされ、男は首がもげそうな勢いで振り返った。そこにはスーツ姿の似合う、男の妻が居た。
「み、みみ、みみみみ」
「みみではありません、ミドリです。旦那様。お仕事お疲れ様です」
 女は眉尻を下げ、男を労った。草臥れた姿の男は丸まった背中を伸ばし、女に頭を下げる。
「み、ミドリさんも、お疲れ様です!」
「まるで上官にサボりがバレた下士官のようですね。そんなに私、恐ろしいでしょうか」
「い、いや、びっくりして……つい……ハハ……」
 乾いた笑いを漏らし、男は頬を掻く。誰にも聞かれないと思っていた独り言を、一番聞かれたくない人に聞かれてしまった。男は意味も無くハンカチを取り出し、乾いた額に押し当てる。
「そのハンカチ、使ってくれてるんですね。嬉しいです」
 女は男の横に並び、二人の家に向かって歩き出した。男も慌てて足を進める。
「な、なんとなく、今日はこれにしようと思いまして……」
 男はミドリの居る方とは反対に視線を逸らし、ぎこちない動作でハンカチを仕舞った。
 デート中、男は自分の至らない話ばかりを繰り返した。男としては自分の駄目な話をしていれば、ミドリが自分への期待や好意を取り下げてくれるかと思ったのだが、ミドリはそれをただの自虐だと思ったのか、「少しずつ改善すればいいだけですよ」と、近くの服飾品店に入り、男にハンカチやベルト、ネクタイピン等、一式買い揃えてやった。身嗜みを一番注意されると漏らしたからだろう。実際、一番叱責される部分ではあるのだが。
 男は目を白黒させながら礼を言い、女からの初めての贈り物を受け取った。申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、使わないのも悪いと思い、定期的に使うようにしている。気が動転していたとはいえ、ミドリの前で堂々と取り出してしまって気恥ずかしい。男はぎゅっと肩を竦ませる。
「ニシキさん、私のこと避けているみたいだから、てっきりもう捨ててしまったものとばかり」
「そんなことしませんよ!」
「冗談ですよ」
 悪戯が成功した子供の様に、女の口元が弧を描く。男が女の笑みに見惚れていると、女の顔にふっと陰が差す。
「……避けている、というのは否定してくれないんですね?」
「あ、いや、その、そういう訳じゃ」
「これも冗談です。……と、言いたいところですが、半分本気です」
 女はふっと小さく息を吐き、足を止めた。男もつられて足を止める。家までは、もう目と鼻の先の距離だった。
「ニシキさん、何か悩んでらっしゃるのですか? でしたら、私でよければ力になりますよ」
「え、い、いや」
「それとも、私が悩みの種なのですか?」
 女は男を見上げた。薄闇の中で光る栗色の目は、男を真っ直ぐに見つめている。男の全てを暴こうとする視線に耐えきれず、男は一歩、足を下げた。そうすると女は一歩、足を出して距離を詰める。
 二歩、三歩、と続けたところで、
「う、あ、……、ち、違います!! ごめんなさい!!」
 夜の帳が降り始めた住宅街に、男の声が木霊した。男は自宅に向かって駆け出して行った。
 女は小さく口を開け、ポカンと男の背を見守っていたが、やがて肩を震わせ始めた。
「そんな態度取りながら……、帰るのは私達の家なんですね……、ふっ、ははっ、あはははは!」
 肩の揺れはどんどん大きくなり、やがて堪えきれなくなったように声を上げて笑い始めた。
 近くの住人が何事かと、カーテンの隙間から外の様子を窺っている。悲鳴から数秒後にけたたましい笑い声がすれば驚いて当然だろう。
 女はしかし、気にせず笑い続けた。一頻り笑って、はぁー、と深く息を吐き出した。
「ニシキさんて、ほんっと不思議な人だなあ……」
 女もまた、自宅に向かって歩き出す。どうやって男から、秘め事を聞き出すか策を巡らせながら。



 その後、エントランスで途方に暮れている男が居たとか居ないとか。
「鍵忘れちゃったみたいで……」
「……(笑いを堪えている)」
 というような場面を入れようかと思ったがバランスが悪いので本編には差し込まず。
 おそらく続きます。先週のもそのうち続きます。

第二話

第三話


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