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人を救うのは人、自分を救うのは自分

人生には、上り坂があれば、下り坂もあり、真坂(まさか)があるとよく言われるが、その「まさか」は、だいたい悪いまさかであることが多い。

ある人は、初めて就職したときの歓迎会の帰りに交通事故に会い、その後、車いす生活を余儀なくされた。体への衝撃箇所がもう少し外れていたら大丈夫だったと医者から言われたそうである。

こういう話を聞くとそんなことがあるのかと思え、運命の女神は意地が悪いと疑念を抱き、あるいは、世界は心を持たずに動いているという気がしてくる。

最近、妻から聞いた話では、ある元気な人が急に脳梗塞で入院して、幸い軽くてすんだので、数日で退院したが、退院したその日に転んで股関節を骨折して、再入院したという。退院の日にケガをするとは、人生は、本当に「まさか」である。

一人暮らしの人らしい。退院後の生活は不便だろうと妻と話しをする。自治体の支援センターに相談したら、ケアマネジャーが来てくれて、介護保険サービスが使えるようになり、介護ヘルパーが日常の手助けをしてくれるだろう。こんなように図式的に話せるのは、すでに私たちは介護の経験があるからなのだが、十余年前の義母の時より、数年前の母のときの方がはるかに介護サービスは充実していた。日本の国もいつのまにか福祉国家に成長した感がある。

その時の経験で感じたことは、黙っていてはサービスは受けられず、常に申請という形式をとるということだ。これは、困った人に自ら進んで手を差し伸べる求道者と行政の違いだろう。行政は冷たいようだが、それには理由があるに違いない。それは、個人は公的権力から自由でなくてはならないということ、そして自己の生存に対する責任は自己にあるということかと思う。

人類は、長い間、現世救済の道を求めてきた。神仏により救われるのは、超自然的な事柄である。現世に生きる上で、一番の救済者は隣人であり、さらに隣人の集団であり、国家とか自治体とかいわれる社会である。人は人によって救われる。福祉とは、人間らしく生きられる保障なのだが、それは黙っていてはやってこない。人間の生きる権利は、自ら主張しなくては実現しない。結局は、自分を救うのは自分ということである。だから人間は、しっかりと意思を持って、強く強く生きなければいけない。


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