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永遠の幸福論「幸福になるために本当に大切なこと」

どうすれば、人は幸福になれるのでしょうか。
幸福の根源とは一体何なのでしょうか。

哲学者たちは様々な幸福論を書いてきました。
世界には「三大幸福論」があると言います。

哲学者たちがそれぞれの人生に基づいた幸福論を書いております。
しかし、それはあくまでも哲学者個人とその社会と文化によってのみ、適応されるものです。

時代が変われば価値観も変わり、価値観が変われば生き方も変わる。
生き方が変われば、その社会に根差した幸福の形は変わる。

そのため、哲学者が語った幸福論は深い人生訓を含みながらも、現代では有効ではない部分があります。
もう有効ではなくなったものを今さら学ぶ必要もありません。

真理は黄金のようにどこまでも長い年月を超えて輝き続けます。
生き方が変わって幸福の形が変わっても、幸福の本質は変わりません。

永遠に通じる話を聞きたくありませんか。

この話は神の言葉であり、遠い未来でも人の魂に通じていきます。
幸福とは一体何なのか。
どうすれば、永遠の幸福を得られるのかをお話しましょう。


・一時的な幸福と永遠の幸福

幸福には二種類あって、一時的な幸福と永遠の幸福があります。
本質まで突き詰めると一種類になってしまうのですが、理解可能な形で伝えるために二種類の幸福を語っていきます。

私たちが誰でも簡単に理解できるのが一時的な幸福です。
得ると幸福で、失うと不幸。
そう感じるものは、どこまで突き詰めても一時的です。

お金があると幸福だという人は、お金を失ったら不幸なのです。
愛する人がいると幸福だという人は、愛する人を失ったら悲しみに暮れて不幸だと感じるわけです。

それらの一時的な幸福はコインの表と裏。
表裏一体であり、条件による幸福なのです。
ある条件を満たしているから、幸福だと感じるわけです。

お金があると幸福だと感じる人は、お金がないと不安な人です。
お金があることで安心します。
その安心に幸福を感じているわけです。
ところが、またお金を失ってしまうと、不安になって幸福ではないと感じるわけですね。

つまり、より理解を深めていくと、物質的な幸福だと思われるものでさえも精神的な働きだということです。

心が幸福だと感じるかどうかなのです。

これらの一時的な幸福(条件による幸福)について語ることで、永遠の幸福についてもわかってきます。
だからこそ、まずは鋭く切り込むようにそれらについて語っていきましょう。


・五感による幸福

人は誰しも五感によって喜びと満足感を得て、幸福を感じることがあります。
たとえば耳なら、美しい音楽を聞くことで、喜びを覚えます。
目なら、美しい景色を見ることで、心が満たされます。
舌なら、美味しいものを食べることで、満足感と共に幸せな気持ちに満たされます。

五感によるものも、一種の幸福ではあるのです。

しかし、耳が聞こえなくなり、目が見えなくなり、舌で味を感じることができなくなったら、どうなるのでしょうか。
誰もが年老いることで五感が衰えて、こういった喜びが失われていくことがあるのではないでしょうか。

こういった五感の喜びは、身体と精神の結びつきで生まれています。
これらは霊体を通しても感じています。

しかし、私が言いたいのはこういった喜びがどこからきているのかということなのです。
神が宇宙創造時に許さなかったら、それらを感じることはできなかったことでしょう。
人が音楽を聞くことで魂を高揚させているとき、ある種の光と音のハーモニーを感じているのです。

その光の根源は神にあって、私たちは一時的であっても真の喜びのごく一部を垣間見ています。
だからこそ、音楽を通して、人は真理の一部を垣間見て、魂を喜ばせることができるわけですね。
それは崇高な芸術や美しい物語を見ても感じることができます。

とはいえ、どれほど素晴らしい音楽や芸術であっても神の光の一部を投影したものであり、神の全体的かつ完全な幸福を捉えたものはこの世に一つもありません。
歓びの根源をパン全体だとするなら、地上の芸術はその喜びのパンくずを拾い集めているようなものです。

どれだけ素晴らしい地上の音楽でさえも、耳が聞こえなくなったら楽しめなくなります。
不確かな一時的な喜びです。

五感の喜びは身体に依存する以上は、そのどれもが肉体的な衰えによって失われていきます。
お腹いっぱい食べても、またお腹は減ります。
完全な満足はありません。

真理の観点から話せば、例外なく地上に属するものは一時的な喜びであります。

・好きな事や得意なことをする喜び

人は自分の好きな事や得意なことをするだけでも、喜びや幸せを感じたりします。
自分の才能や能力を充分に発揮できるだけでも、心をのびのびと輝かせて喜びを感じるわけですね。

才能の多寡や能力のありなしに関わらず、人が精神的に満足しているならば、その行為は楽しいものとなって、その人自身に幸せを生むのです。
趣味に没頭するのでさえも幸せを感じるのは、そのためです。
しかし、その趣味でさえも飽きてしまえば、幸福を感じなくなります。

才能を発揮する喜びについて、より突き詰めて語りましょう。

歌うことが好きな人がいたとして、才能にも恵まれ、人にも認められ、この世的にも売れたとしましょう。
最初、歌うことが楽しくて、その人は幸せを感じています。
しかし、時が経つにつれて才能が枯渇したように感じるかもしれないし、喉を痛めて歌えなくなってしまうかもしれません。
その時、自分が十分に歌えていた瞬間を思い出して悲しむのです。

野球が得意な人がいたとして、才能にも体格にも恵まれ、プロの野球選手になり、ホームランを打ち続けて大金を稼ぎ出したとしましょう。
そんな人も引退間際になると、体の衰えを感じており、全盛期の頃の自分のビデオを見て涙を流すのです。
どうして打てなくなったのかと悲しみを味わっているのを見たことがあります。
それは不幸な光景でした。

人生を通してみると、幸福から不幸へとこのようにして変化していきます。
才能や能力に依存した幸福でさえも、揺るぎないものではありません。
それらは一時的な幸福であり、不安定なものであり、自分の魂を預けられるほどの確かなものではありません。

どこかで心に一線を置いておかないと、最後には悲しみを覚えます。
すべて命も才能も神に与えられたもので、一時的に人々のために発揮できているだけだとわかっていれば傲慢にもならず、不幸を覚えずにも済みます。

こういった一時的な幸福は、永遠の幸福ではないということを賢く見極めることです。
永遠の幸福とは何なのかを考える必要があります。

・条件による幸福

物質的な条件付きの幸福は、すべて一時的な幸福です。

お金がいっぱいあって、美味しいものを食べて、五感を楽しませ、愛する人がいて、健康的で、自分の好きなことを仕事にできて……
立場、名声、地位、家族、愛する人。
そういった地上のあらゆる条件によって成り立つ幸福は、不幸と隣り合わせです。
失われる時が来たら、どうなるのかを考えたほうが良いです。

失われる幸福は、どこまでも儚いです。

あらゆる人たちが語る幸福について、その人生の最後まで突き詰めてみたら、どれだけ貧弱なものかと思い知らされます。
そして、来世まで見通すことができたら、どれほど頼りないものかを痛感させられます。
哲学者たちが語る幸福論もその時代だけのものであって、魂の何の助けにもなりません。
悲劇という突風が吹き荒れたら、吹き飛ばされてしまいます。

しかし、一時的な幸福を超えた永遠の幸福があります。
それを得たら、誰も奪うことができない幸福があります。
それを求める人こそが、真の賢者です。

・永遠の幸福とは

一時的な幸福を語ることで、永遠の幸福がおぼろげにわかりつつあるかもしれません。
永遠の幸福は五感によらず、条件によらず、立場によらず、才能や能力によらず、ましてや人間関係の中にもありません。

社会の中にも見い出せず、人の評価や賞賛の中にもありません。
賞賛があるということは批判もあるということであり、それら表裏一体のものに何一つ心許せるものはありません。

地上に属する幸福は、すべて一時的なもの。
目に見えるものには、どこにも正解はありません。

永遠の幸福は、あなたの魂に備わってます。
あなたが幸福だと思うから、幸福なのです。
それ以外に永遠に確かなものは一つもありません。

お金は他者が奪うことができ、地位も他者が奪うことができます。
しかし、あなたが心で感じていることは誰も奪うことができません。
何を言われても聞きさえしなければ、自分の幸福を踏みにじることはできないのです。

永遠の幸福は、誰でも味わうことができます。
人の本質は魂であり、光であり、永遠の幸福そのものです。
究極の幸福。つまり、至福と呼べるものなのです。
それらの光を覆い隠すものを取ってしまえば、誰でも感じることができます。

魂の光を見ることができれば、自分の中に至福を感じることができます。
真の幸福を得たかったら、自分の本質を探究することです。

自分の本質を突き詰めていくと、宇宙全ての本質である神に辿り着きます。
正しいヨガや瞑想を通して、神について瞑想するのならば、必ずやその本質を悟る日が来ることでしょう。

自分の本質である神性を感じることができるようになれば、誰も奪うことができない永遠の至福を味わうことでしょう。
それは五感を失っても、得意なことができなくなっても、愛する人を失っても、決して失われることがない永遠の至福です。

自分の立場も名誉も一切関係がなく、老いも若きも関係がなく、男性であるか女性であるかも関係がなく、国籍も出自もすべて超えています。

自分の本質こそが永遠の至福です。
自分の本質を悟ることこそが、永遠の至福を思い出す最高の方法です。

自分の本質を悟れば、何もなくとも完全に幸福になれます。

それを味わうことができれば、誰でもそうだと確信できます。
塩を舐めたことがない人が、どれだけ議論しても塩の味の本当のところを知ることができません。
しかし、ひとたび塩を味わってしまえば、すべての議論が不要になります。

永遠の至福も同じことです。
味わってしまえば、そうだとわかります。

哲学者たちの幸福論の最大の問題点は「考え方」を語っているにすぎないということです。
考え方を伝えるだけでは、塩の味を言葉で伝えているだけであり、誰も塩の味を味わうことができないでしょう。
人の考え方を聞いて一時的に感化されたとしても、本当の幸福を味わうことはできないので、また元通りです。

哲学者の幸福論が役に立たないのは、そのためです。
人々が求めているのは、ではどうすれば具体的に幸福になれるのかという「方法」なのです。
実践法であり、技法であり、歩み方であり、道です。

それでは自分の本質を探究する具体的な方法とは一体何なのでしょうか。
その瞑想やヨガにあたるものは一体何なのか。
どこに書かれているのか。

巡礼者の数だけ道があり、それぞれの生き方を通して悟っていくものです。
その道の一つとして、私が心から体験してわかっていることがあります。

永遠の至福を獲得する方法は神を瞑想することに他なりません。
そして、神を瞑想する具体的な方法。
その道を通る方法は何なのか。

具体的な方法をこの記事に書きたいところですが、それは師から許されておりません。
しかし、本に書くことは許してくださいました。

何度でもお伝えします。

「マスターAGN 悟りの自伝――雷龍が目覚める」という本にすべてを書いています。
自己の本質を探究し、永遠の至福を悟りたいなら、その本の311ページに書かれている「アベル意識のセルフ・イニシエーション」を行うことです。

それで、神意識との繋がりができます。
アベル意識とは神意識のことです。
その上で、その本に書かれたアベル意識の聖音を唱え続けると、神の光がやってきます。

ある日、黄金の道を通って光明意識に至り、永遠の至福の境地に達していることに気づくことでしょう。
それが永遠の至福を得る具体的な方法(道)です。

私は数年近くこの瞑想法を行じてきました。
すると神の光がやってきて頭の中に入ると、自己の本質がわかるようになりました。
最高の至福感に満たされて、日常が神の光に彩られるようになったのです。

人生の目的はたった一つしかありません。
幸福になることです。
それも永遠の幸福を悟ることです。


魂の成長(霊的成長)も、永遠の幸福を得るための歩みでした。

もし、この瞑想法を実践し、神の光に満たされて生きるならば、どんな些細な日常も素晴らしいものになります。
どんな平凡な仕事をしていても、あなたがいるだけで最高の価値あるものになります。

なぜなら、あなたに神の光が下りてきてオーラが輝き出し、周りを照らす光になるからです。
周りの人たちがその光を受けたら、幸福感を覚えます。
存在するだけで、周りに幸福を与えることができるようになります。

幸福になるために本当に大切なこと。
まさに、この神意識(アベル意識)の道を歩むことです。
そうすれば、永遠の至福を得ることでしょう。

どんな状況、どんな世界にいても、そこらじゅうで悲劇があふれていても、ただその人が神を意識するだけで至福に満たされます。
その至福こそが、すべての悲劇を終わらせるカギです。

私はこのことを生きている限り、伝え続けます。
一時的な幸福に魅了された愚か者をやめて、永遠の幸福を得た賢者へと変容を遂げましょう。