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我々をハイダたらしめるもの【ハイダグワイ移住週報#22】

この記事はカナダ太平洋岸の孤島、ハイダグワイに移住した上村幸平の記録です。一月後半に開催されたハイダ語カンファレンスのレポートです。

1/17(水)

早起きをするのも久しぶりだ。7時前に目を覚まし、お茶漬けでさっと朝ごはんをとる。友人がくれた粉末緑茶はあまりお茶漬けには向かないようで微妙な味。急いでかき込む。

今日から五日間、ハイダ語のカンファレンスが開催される。僕がいつも受講しているマセット村のハイダ語センター主催だが、開催地はなぜかスキディゲート村のハイダグワイ博物館。朝7時半に村を出発するシャトルバスで南部に向かう。

外はまだもちろん真っ暗、道もところどころ凍結している。バス停につくとすでにデラヴィーナおばちゃんがいた。寒いね〜、と話す。シャトルバスが来たタイミングで、レオナおばあちゃんが車を乗り付けてきた。ほんわかなおばあちゃんがフォードの黒いトラックを運転しているのはいつ見ても不思議だ。

バスは僕とデラヴィーナ、レオナおばあちゃんとハイダ語センターのスタッフ数名を乗せ、夜明け前のハイウェイを一路南に走った。

スキディゲートまであと少しのところで目を覚ますと、凪いでいるヘケテ海峡には朝日が輝いていた。思わず息を呑んでしまう美しさ。起伏の大きなスキディゲートまでの道のりをバスに揺られながら、暖かな陽の光をいっぱいに浴びる。悪くない1日のスタートだ。

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ハイダグワイ博物館のパフォーマンスルームにはすでに2、30人ほどの人々が集まっていた。見たところハイダのエルダーたちがほとんどで、若めの人間はハイダ語センターのスタッフ数名、あと僕くらい。

今回で3回目となるというマセット・ハイダ語センター主催のカンファレンス。マイクを握るのは僕の先生でもあるジューサルジュス。前回は2019年だったという。ハイダ語(マセット方言)の保存と教育のため、マセット村からだけでなく、スキディゲート村のハイダ語プログラム「SHIP」に携わる長老たち、さらにはアラスカに点在するハイダ族の村からも数名の参加者が来ている。

五日間にわたるカンファレンスに先立って、数名の長老たちがスピーチをする。
「民族一丸とならなければ、私たちの尊い言語を守り抜くことはできないのです」スキディゲート方言保存の第一人者であるグワーガナドが語りかける。その小さな老いた体からは予想もつかないほど、強い意思を含んだ声で。
「父は幼い頃から、白髪の長老たちにハイダ語を教わっていた。長老たちはハイダに伝わる物語が途切れないよう、死に絶えることのないように、彼らの言葉を継承し、記録し、記述した。ある時、テープレコーダーが導入され、父は彼らの語りをドキュメントし続けたのよ」

1万人もいた人口が500人まで減ってしまったのは、我々の民族が抱える最大の悲劇だった、と彼女は続ける。「多くのクランが途絶え、多くの村が打ち捨てられた。言葉は悲劇を、歴史をきちんと覚えている。そしてこの地とともに生きていくための、数多くの教えももたらしてくれる。ハイダ族の連帯と、ハイダグワイという故郷を未来に繋ぐための知恵をね」

イルスキャーラスと名乗るおばあちゃんがマイクを握る。博物館や本によくポートレートが載っていたので、見覚えがある。1929年にマセットで生まれた彼女は、その後アラスカハイダの地に移り、1970年代以降に始まったハイダ語保全運動の最前線で戦ってきた。「久しぶりに故郷の地を踏むことができて、本当に嬉しいわ。言葉ではいい表せない力を感じるの」

クーヤースと名乗る長身で黒髪短髪の男は、前日に9歳になったという息子を連れてきていた。流暢にハイダ語を操る父に続き、少年も挨拶をする。ハイダグワイからちょっと北にあるプリンス・オブ・ウェールズ島のハイダベルグ村からはるばるやってきた。アラスカでも新たにハイダ語教育の資金調達が完了し、ハイダグワイ博物館にインスパイアされた形の総合施設を作るというニュースがシェアされる。わっと歓声が上がる。

開会式が済んだ後にコーヒーブレイクがあり、大きめの会議室に皆移動する。僕はマセット村の仲のいいおばちゃんたちと同じ席に着く。はじめにハイダ語学習ビンゴ。「ポットラッチで踊ったことがあるか」「ハイダ語で挨拶できるか」「ハイダソングをソロで歌えるか」など。思ったよりできるものが多くて、丸をつけていく。なんと三番目にビンゴ。景品にハイダアートの書かれたティーカップをもらった。

アイスブレイクが終わると軽食の時間。ハイダ族のイベントはいつも大量の食べ物が提供される。いつもジャンクなものが多いが、育ち盛り腹ペコ男子にはありがたい。

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エルダーたちがゆっくり昼食をとっているところで外に出てみると、エリカとジェイが火を起こしている。レッドシダーがパチパチを心地よい音を立てて燃えている。ジェイがセージを燻している。そうか、ファイヤ・セレモニーか、と思う。

ハイダ族(多くの先住民に共通することらしいが)は先祖や精霊と交歓する際、セージの煙とシダーの葉で身を清める。お祓いの要領だ。ジェイがセージを焚き、ワシの羽でできたうちわのようなもので各人の身体全体に煙を纏わせていく。エリカもシダーの葉でほこりを落とすかのように身体をはたいてくれる。

「自分たちが食べたものと同じものを火にかけて、スピリット・ワールド(精神世界)のご先祖様たちや精霊たちにお裾分けします」
ジューサルジュスと妹のグダヒーガンズがふたりで木のお盆に乗ったサンドウィッチや果物を火にかける。エリカが静かに、それでいて確信を持った手つきでドラムを叩く。

スピリット・ソングが厳かに歌い上げられてから、アラスカから訪れているクーヤースが祈りの唄を披露する。「これは僕のおばあちゃんから授かったものなんだ」

火に耳を立てるのだ、木々の燃える音が聞こえるだろう、その音はわたしだ、わたしの語りかける声だ。天高く登る火と煙はわたしたちを繋いでいるのだ、そのことを忘れるな…

芯の通った声で歌い終わってから、彼は歌詞の内容を教えてくれた。心の琴線に触れるものがあった。何故かわからないけれど、彼の歌声を聞きながらタバコの葉を火に焼香する時、目が熱くなるのを感じた。

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次のセッションの前に、博物館に常設展示されているスキディゲート村の1870年代の模型をじっと眺めていた。

美しい村でしょ、と後ろから初老の女性に声をかけられる。本当に精巧な模型だ。
「いつもこの模型に魅了されます。不思議ななてものが多くて。ロングハウスの後ろにある小屋、これって何なのでしょう?」
「それはモータリティ・ハウス、『死者の小屋』ね。族長や高名な人物は低めの『死者のポール』の頂点に設置された箱の中に埋葬されるけれど、それ以外の家族は家の裏の小屋に葬られる。」彼女がそう教えてくれる。
「死者のポール…?亡くなった人を埋葬するためのトーテム・ポールということでしょうか」
「そう。チーフたちはたっぷりの薬草とともに木箱に入れられ、低めのポールの頂点に据え置かれる。この模型の家の前にポールが数本立っているのが見えるでしょ?大きなポールはそのクラン(家系)の紋章を表すもの、低くて箱の乗っているポールはそのクランの族長を葬るポールなの」

スケダンス村(十九世紀に廃村・クランは今スキディゲート村に住んでいる)のクラン出身というガジーワと名乗るその女性はハイダ文化への造詣が本当に深いようで、僕の質問にかたっぱしから答えてくれた。ポールに入った横線はポットラッチを開催した数だということや、尾鰭のついたポールは海難事故で亡くなった人を供養するメモリアルポールだということなど。こんな生の情報を聞けるだけで、朝頑張って起きてバスに揺られてここまできた甲斐があるというものだ。

ところであなたはどうして今日ここにいるの、と彼女に聞かれ、これまでの経緯を話す。確かに、ハイダ族でもカナダ人でもなく、言語学者といったスペシャリストでもない、ただの若いアジア系男性がいるというのは相当不思議な状況だ。前のセメスターからハイダ語を学んでいて、なじみのおばあちゃんたちと一緒にマセットから来ました、と自己紹介する。

「それは本当に素敵ね。ね、おばあちゃん、こちらの若者はコーホーよ」と紹介されたのは、一番最初にスピーチをしていた長老のグワーガナド。すてきなニックネームね、と握手してくれる。
「あなた結婚しているの?ほらみんな、ハイダの女の子を紹介してあげなさい」とジョークを飛ばす、はつらつなおばあちゃんだ。タモの叔母であるセヴァンの義理の祖母にあたる人物。彼女のハイダ語保存への献身的なストーリーはたくさん聞いていた。こうして挨拶できて嬉しい。

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午後のセッションは現在のハイダ語保全プログラムの実態についての調査報告と、それに関する意見交換が行われる。第二言語として英語を学ぶのと、第二言語としてハイダ語を学ぶのには根本的な違いがある。言語学習じたいが忍耐と献身を要する本当に難しいものであることはさておき、各々の言語を学ぶインセンティブは全く違う。

英語を学ぶことで、非英語圏の我々はアクセスできる情報が増え、表現できる方法も増える。海外に友達を作れるという利点もあれば、大学入試や就職といったプラクティカルな動機づけもある。日本人が英語を学ぶことには、目に見える利点がたくさんある。

それに比べて、ハイダ族の若者がハイダ語を学ぶわかりやすいインセンティブは少ない。ハイダ族がハイダ語を学び、保存する、その背景にあるのは民族としてのアイデンティティというもっと壮大なアイデア。すぐに身につく言語でもなければ、わかりやすい利点をもたらしてくれる言語でもない。その言語は1万年以上の月日をハイダ族とともにしてきた、民族の根本をなすもの。

「若い人々はこの不確かな現代で、日々を生きるので精一杯なはず。特に若いハイダ語学習者には、なにかしらの奨学金のようなものを出すべきだ」とジェイ。大きく同意する。

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1日目のセッションが全て終了し、早めの夕食の時間。メニューはローストビーフ、ミートソースパスタ、ガーリックトーストにマッシュポテト、シーザーサラダ。「スキディゲートの人間は甘いものには目がないのよ」と同じテーブルのレオナおばあちゃんが言う通り、三つも大きなケーキが運ばれてくる。フードファイターの出番である。

同じくマセットから参加しているレオナおばあちゃんとアニーおばあちゃん、デラヴィーナと僕の4人でディナー。
「わたしとクマの不思議な話、コーホーに話したことあるっけ?」とレオナおばあちゃんがあるストーリーを語り出した。

今から数十年前のこと。まだ若かったレオナは、大学のサマープログラムで来た学生たちを連れて、自らのクランの故郷であるキウスタ村を訪れていた。ハイダグワイ最北に浮かぶランガラ島の太平洋岸にかつて存在した、ハイダ族最大の集落だ。キウスタ村は十九世紀後半のパンデミックの際に打ち捨てられ、生き残ったレオナの先祖たちはマセット村に移った。故郷の村跡には未だ過去のロングハウスの柱や土台などが残っていて、そのまわりで若者たちと歌い、食事をし、キャンプを楽しんでいたのだという。

「ある夕方、家々の跡が立ち並ぶキウスタの一角で、全員で夕食を作っていたの。そうしていると突然、大きなブラックベアが私たちの目の前に現れたのよ」突然の巨獣の来訪に、レオナも学生たちも動くことができないまま、クマと対面した。
「そのクマは私たちをじっと見つめたあと、まるで日課のパトロールをするかのように、キウスタ村に残った家跡や朽ち果てたポールをひとつひとつ確認していったの。私たちや食料には目もくれずね」

熊はひとしきり村跡を点検したあと、満足したように森に戻って行ったのだという。「長いこと生きてきたけれど、私が一番自然の不思議さを感じたのはあのクマとの出会いね」

各クランのメンバーには、彼らの故郷である村跡を訪れる機会が数年に一度あるらしい。先祖たちが住んでいた場所を訪れたとき、人々はどのような感情を抱くのだろう。気になる。

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食事が終わり、バスに乗ってマセットを目指す。村に着いたのは19時過ぎ。僕は木曜・金曜のセッションは仕事で参加できないが、土日にはまた参加するよ、といって別れる。

夜、シアトルの友人と電話を繋ぐ。去年夏、北米上陸時にとても助けられた浪人時代の盟友であるマオと、彼女の旦那であるトーマス。年末年始に日本に遊びに行っていたのだとか。初めてのジャパン体験にトーマスは興奮していた。よかったね。

UWでジャーナリズムを学ぶ彼女は英語で記事を書くことになかなか苦労しているようだ。そりゃそうだ。日本語で満足に文章を書くのですら難しいのに、外国語で読者を納得させられるような記事を書けるようになるにはどれくらいの月日が必要なのだろう。

シアトルとか時差がないから気軽だ。近くに(そう近くもないが)同じく強く生き抜いている友人がいるのは大きな心の支え。6月にまた会えるのが楽しみ。

1/20(土)

じっとりとした朝。今日も道は凍ってはいなさそうで安心する。パンケーキを2枚焼いて食べ、7時過ぎに家を出る。村からバスが出発するのは8時だ。

ハイダ語カンファレンス4日目。おととい昨日は仕事で参加できなかったが、最後の二日間は参加する。スキディゲート行きのシャトルバスにはデラヴィーナとレオナおばあちゃん、リリーおばあちゃん、そしてスタッフふたりが乗り込む。バスの乗り心地がよく、博物館に着くまでの1時間半はぐっすり。ふたをしっかりと閉めたかのように空には分厚い雲が覆い、朝9時でも暗い。

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午前中のセッションでマイクを握るのはマギー・マエという女性。ファースト・ピープルズ・カルチュラル・カウンシル(先住民文化委員会)なる団体は、今回のカンファレンスの協賛者の一つ。BC州の公的団体で、先住民の文化や言語の活性化をサポートしている。

ハイダ語だけでなく、カナダの先住民が受け継いできた様々な民族言語は絶滅の危機にある。「さまざまな地域で先住民言語の新規学習者、中級話者は確実に増えてきています」彼女が先住民言語の状況についてまとめられたレポートを紹介する。「しかし、第一言語としての話者の高齢化が進んでおり、先住民言語を流暢に操れる人数はじわじわと減ってきているのが現実です」

いくら言語学習のリソースが拡張され、資金が投入されつつあっても、先住民言語を流暢になるまで学習する障壁は高い。現実にコミュニケーションで使われるのは英語であり、目に見える利益を産まない言語を学ぶことにインセンティブを持つのは難しいのだろう。

ただ、言語保全を取り巻く現状は順風満帆とは言い難いとはいっても、一度は途絶えかけたハイダ語を フルタイムで働くハイダ語センターの職員がおり、ネイティブスピーカーがメンターとなって学習者と二人三脚で学ぶプログラムもある。学習リソースや授業は無料で全員に開かれており(僕だって学べる)、島の地名や標識の多くにはハイダ語が見られる。

プレゼンターが言語復興のためのアイデアを募ると、たくさんのエルダーたちが手を挙げる。「ランド・ベースド・ラーニングの機会があればいいのだけれど」ハイダの人々にとって大切な場所ー昔に打ち捨てられた、先祖たちの村跡などを訪れ、自然や先祖たちとのつながりを感じつつ、フィールドで言語を学ぶ。そんなことが実現すればどんなにいいのだろう。

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休憩時間に若い男に声をかけられる。少年、といったほうが良いかもしれない。「あんたのことは知ってるよ」カーティスと名乗る彼は先月17歳になったばかり。僕がパドル作りを習っているキーランが面倒を見ている、カーヴァー(彫刻家)見習いのひとりだ。

今は高校生なのか、と聞くと彼は笑って首を振る。
「修行で忙しくて、今は休学しているんだ。オンラインで高校課程を修了できるプログラムがあって、それを始めようかと思ってる」マセット村の偉大なハイダアーティスト、マスター・カーヴァーであるクリスティアン・ホワイトの弟子として、弱冠17歳にして大きな責任を負っている。リスペクト。

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午後にかけてはストーリーテリングのセッション。個人的に一番楽しみにしてきたものだ。どんなストーリーを長老たちの口から聴けるのだろう。

スキディゲート村の長老のひとりであるグワーガナドがマイクを握る。隣のルークのおばあちゃんでもある彼女はハイダ族のなかでも由緒正しい家系の生まれ。伝統的な手法で育てられ、レジデンシャル・スクールに取られることもなく、クランのストーリーテラーとして流暢なハイダ語話者になった。

ハイダ族の各クランには、伝統的にひとつの家系がストーリーテラーとしての責務を負っていたのだという。文字を持たない文化圏において、部族のストーリーを語るということは歴史を語ることと同じ。
「長老たちは子供が生まれたそのタイミングで、その子がストーリーテラーになる素質があるかどうかを見極めたの。選ばれし子供は本当に幼い頃から、白髪の長老たちから訓練を受けていたのよ」

ハイダのストーリーは大きく三つに分けられる。世界やハイダグワイの土地、始祖の人間が生まれた伝説を伝える創世神話「キーガン(Ḵ'iigaanga/Ḵ'iigang)」、ワタリガラスがハイダグワイの土地を旅する伝説「フーヤ・カーガナス(Xuyaa Ḵaaganas)」。そして、家族やクランの出自などに関するパーソナルな言い伝え「ギャーヒラン (Gyaahlang)」。何か教訓を伝えるためのストーリーもあれば、何の脈略もないストーリーもあるのだという。

「教訓のあるストーリーの多くは、生きとし生けるものへのリスペクトの大切さを伝えるもの」そういってグワーガナドが語りだす。

とあるクランの村人たちは族長(チーフ)に連れられ、森にハイキングに出ていた。キャンプを立てた後、族長は火の面倒を見るように孫に言う。キャンプファイヤの番をさせられた少年はその夜、カエルと出会った。少年は面白半分でそのカエルを捕まえ、火に投げ入れてしまう。

すると、火は恐ろしい音を立て始め、少年は突然胸に激しい痛みを感じた。族長が異変に気づいた頃には少年は火の横で息絶え、周りに飛び散った大きな火の玉がキャンプを飲み込んでいく。

『皆、カヌーに乗り込め。逃げるんだ!』族長は村人たちをカヌーに乗せ、燃え盛るキャンプ地を捨てて沖へと逃げていく。火の玉は空からも降り始め、カヌーを、そして村人たちを焼き尽す。全身が焼かれる苦しみの中、族長が最後に聞いたのは、天の創世主の怒りの声だった…。

「ひとりの少年のいのちへのリスペクトを欠いた行為が、ひとつの村を消滅させたのよ。ハイダの哲学に反することをすると、大きな災難が襲うと言う教訓ね」グワーガナドの語り口には、どうしようもなく引き込まれるものがあった。

「『死』について、興味深い話があります」と語り出すのは、アラスカ・ハイダの長老であるイルスキャーラス。 1929年生まれのおばあちゃんだ。彼女が芯の通った声で語ったのは、ハイダ族の死生観について。

「死期がもうそこまで来ている人間のもとには、じわじわと押し寄せてくる潮に乗って、それはそれは美しいカヌーがやってくるといいます。そのカヌーは、死に迫っている人にしか見えません。」

「カヌーには、すでにスピリット・ワールドへと旅立った先祖たちが乗っています。そしてこう言うのです。『あなたを素晴らしい場所へと連れて行って差し上げましょう』と。カヌーは死にゆく人を乗せ、引いていく潮と共に海に旅立っていくのです」

ハイダは死する際、森に還るのではなく、海へと旅立っていく。「三途の川を渡る」という日本の価値観と似たようなものを感じざるを得なかった。

イルスキャーラスは続けて、ハイダの漁業の起源に関するストーリーを語る。『ファースト・ネット』と言われるストーリーだ。

若い女性は村から隔離され、ひとりで森の中で生活していた。自然の中でひとりっきりで過ごす間、彼女は蜘蛛の巧みな巣作りに魅了され、じっと観察し続けていた。

あるとき彼女は、叔父が残していったイラクサで蜘蛛の巣を作りはじめる。その繊維をねじって糸にし、ゆっくりと、美しい幾何学模様を編んでいった。隔離期間が終わり、彼女の叔母が迎えに来る。彼女は編み上げた『蜘蛛の巣』を川に投げ込んだ。すると川に水しぶきが上がり、不思議に思って『巣』を引き上げてみると、たくさんのサーモンがかかっていた。

「わたしにたくさんのストーリーを教えてくれたのは、母方のおじだった。ストーリーテラーたちは人形やサインランゲージ、影絵や効果音を使いながら、ドラマティックに語っていたわ」ハイダ語の意味がわからなくてもそのボディランゲージから理解できたというのだから、ストーリーテラーたちの力量の凄さが想像できる。

やはり、ハイダの長老たちは生粋の語り部だ、と改めて認識した。「ストーリーを語ること」は「歴史をつなぐこと」であり、「自分たちが何者か」「自分たちはどこから来たのか」という問いに答えるものなのである。

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早めのディナーの時間。今日はハイダグワイ産のものばかり。サーモンジャーキーとサーモンのスープ、ハリバットの白身フライとほぐした身をマヨネーズとディルをかけてオーブンで焼いたもの(一番美味い)、スモークサーモンとハッシュドポテト、サラダ。

給仕を手伝っていると、欲しい人がいないか聞いてきて、と渡されたのは濁った茶色いソースの入った瓶。「ユーリカン・グリースよ。『グリースいる人?』と聞けばみんな分かるから。ほら、行って行って」
ナンプラーに似た魚が腐ったような香りのする、とろみのある液体。意味もわからず瓶を持ってテーブルの長老たちを回る。みんな嬉しそうに自分のスープに、魚にかけていく。

「ユーリカンっていう小魚を発酵させて作ったフィッシュ・ソースよ」とレオナおばあちゃんが教えてくれる。
「ハイダグワイでは獲れない。カナダ本土沿岸で獲れる魚で作るものね。プリンス・ルパートやテラスに住むニスガ族の品質が最高なの」

カナダ先住民の発酵食品との偶然の出会いだった。東アジア、東南アジアではよく見られる「魚醤」。日本でも秋田県の「しょっつる」などが有名だ。それに似たようなものが、太平洋の対岸でも作られていたとは。衝撃である。

スプーンでひとすくい、スープにいれてみる。油分が高いようで、スープの表面に玉状に浮かんでいる。かき混ぜて食べてみると、強いうまみ成分が口の中いっぱいに広がった。間違いない、これは魚醤のたぐいだ。そしてちゃんと美味しい。魚料理の味を引き立ててくれる。ハイダ族が昔から沿岸のニスガ族と交易してきたというのにも頷ける。発酵文化との邂逅。変にテンションの上がった僕を、同じテーブルのレオナおばあちゃんとリリーおばあちゃんは不思議そうに笑っている。

エリカがグリースの瓶を手に取っていう。「これは相当濃いめのものね。ほら、ここで油分とその他のものが分離してるでしょ?」今でも伝統的な製法を守って作られているユーリカン・グリース。作り手やその年の魚の状態によって、濃さに違いが出るようだ。

「ユーリカン・グリースで、先住民たちは天候を予測していたって話があるわ」
「この瓶で天気予報?それはいったい、どういうことでしょうか」
「気圧の変化で、油分の凝固状態がちょっとずつ変わるみたい。グリースの瓶を窓際に置いて、昔の人々は天気の状態を測っていたのよ」

ひとつの発酵食品に、これだけの知恵が詰まっているなんて。驚きと興奮を抱えながら、旨みがブーストされたスープをかき込んだ。その会場で一番若いポジションということもあり、どんどんプレートに食事を盛られる。おばあちゃんたちに見守られつつ、フードファイトのごとく魚料理を平らげた。

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食事が終わり、バスに乗ってマセットに戻る。時間はかかっても、こうして着実にローカルのなかに分け入り、知恵を、ストーリーをひとつずつ拾い上げてこられていることに嬉しさを噛み締める。

夜、寝る前にニュージャージ駐在の友達と電話をつなぐ。年末にアメリカに引っ越して、ホームシックなどもありつつようやく落ち着いてきたのだとか。同じ北米大陸でありながらも、こうも生きている世界も生活も違うのだと認識する。ニューヨークのような大都会の生活も、アメリカのシットコムばかりみている自分には憧れの一つでもあるが、今はこうして物質主義から程遠いところで物静かに生活できていることにも満足している。いつか遊びに行きたい。

1/21(日)

今日も早起き。ハイダ語カンファレンスの最終日だ。8時にバスが出る。バナナを口に突っ込みコーヒーで流し込む。

シャトルバスにはすでにレオナおばあちゃんが乗っていた。朝から元気。博物館までの道のりでは、オーディオブックの「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」を聞き続ける。今年4月にはヘルシンキを訪れる予定なので、主人公がフィンランドに友人を訪ねにいくシーンには聞き入ってしまった。北欧の湖を吹く心地のいい風を想像させる美しい情景描写に脱帽である。

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博物館につくと、すでに他の村の長老たちは席についていた。五日間ぶっとおしでのカンファレンスできっと疲れも溜まっているであろうに。

今日のスケジュールはこれまでのセッションの振り返りと政策提案を構想するというもの。僕の先生であり、マセット村ハイダ語センターのスタッフであるジューサルジュスは午後にオタワに飛び、カナダ政府との会合に出席する。ハイダ語を継承していくプログラムへのファンドを取り付ける、大切な仕事だ。

「どのセッションも素晴らしかったけれど、昨日のストーリーテリングは本当にパワフルだった。ハイダの神話をハイダの言葉で聞き、学べるというのは貴重な経験」アラスカからはるばるやってきたエイプリルというおばちゃんがシェアする。

強く同意する。僕もこの場所の人々に興味を持ち始めてから、さまざまな媒体でハイダの神話を深ぼろうとしていた。本で読み、絵本を開き、論文を漁った。しかしなによりも、教室にいるエルダーの口から語られたストーリーほど力を持ったものはなかった。結局のところ、ハイダのストーリーはオーラル・ヒストリーなのだ。文章として記述されることを想定されていない、しかるべき運命を背負って幼い時から訓練を受けたストーリーテラーが語るべきものなのだ。いくら本で読もうと、人伝いに聞こうと、現地で本人の口から聞くことに勝る経験はない。

この場所に集まっている長老たちの、静かな熱量には胸を動かされるものがあった。数千年という時間をくぐり抜け、民族としてのプライドとアイデンティティを繋いできた固有の言語を、何とかして後世に繋げたい、繋げなくてはならない——そんな気概を、教室の空気から感じ取ることができた。

もちろんその道は決して視界良好とはいえない。僕と同じような世代の学習者を、今回の会合では数人しか見ることができなかった。日本であろうとハイダグワイであろうと、若者世代や子育て世代にとって、目の前の生活を一日一日と生きていくことが喫緊の問題なのだ。いくら自らのネイティブな文化や言語の重要性を理解しているからといって、そこに日常のなかの大きなリソースを割くことは難しいだろう。僕がこう参加できているのは例外に過ぎない。

最後のシェアリング。マイクが回ってきて、僕も感謝と意見を述べる。学ぶ機会を分け与えてもらえて、この場所に受け入れてもらえて、本当に感謝していること。長老たちの口からストーリーを聞くことができたのは、自分がこれからの生において、ずっと抱えていくであろう大切なものになったということ。

「ひとつの提案というか、外部の人間の意見として聞いていただきたいのですが」言葉を選んで、思っていたことを伝える。
「若い世代がハイダ語を学習する現実的なインセンティブを作る必要があると思うのです。先住民言語を学ぶことは、僕のような非英語圏の人間が英語を学ぶことで得られるようなプラクティカルな利益をすぐにはもたらしてはくれません」

エルダーたちの真剣な眼差しを感じつつ、僕は続けた。「ただ、自分たちのルーツとしてハイダ語を学ぶことは、きっとそれ以上の価値があると思うのです。その価値は目に見えず、その大切さをはじめから理解はしにくくはあっても。目の前の生活を繋いでいくことに精一杯な若者たちを支援し、学習を促進するためにも、奨学金のような金銭的インセンティブがあればいいのでは、と思いました」

誰もが僕のように時間があり、融通が効き、そして言語学習というものに純粋な好奇心を持っているというわけではないはずだ。その点において、自分はそうとう恵まれているな、と改めて思う。ひとりの招かざる客としてこの島で生活し、その文化に魅了された一人として、僕にいったい何ができるのだろう。そうずっと考えている。

感謝の言葉が交わされ、長老たちへの敬意のギフト、そのお返しにスタッフへのギフトが贈られる。贈り物をもらった人物は中央に躍り出て、ドラムの音に合わせて身体を揺らす。最後には最高齢のイルスキャーラスが祈りと捧げ、五日間に及んだ会合は終了となった。

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ランチタイムにはサンドウィッチとスープが配られる。僕も配膳を手伝い、さまざまなストーリーを伝えてくれた数々の長老のもとに食事を運ぶついでに、感謝を伝える。僕が彼らのような歳になった時、どんなストーリーを残せるのだろうか、とふと思った。

さすがに数日間続けて顔を合わせていると皆僕のことも覚えてくれたようで、いろいろと声をかけてもらえる。
「ここのところあってはいないけれど、何年と続けてハイダグワイにきていた日本人がいたわ。あなたのテリトリーと我々のテリトリー、結構縁が深いのよ」ひとりのおばちゃんがそう話しかけてくれた。『国』という言い方ではなく、『テリトリー』というのが新鮮だった。

この会合に参加できてよかった。僕がどんな貢献をできたかはわからないけれど、もっとこの地の言葉を学びたいと思ったし、学んでもいいのだろうという感覚を得ることができた。また長老たちに会えるのが楽しみだ。

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バスでマセット村に帰り着いたのは15時前。まだ明るい。隣のルークのサウナに火が入っていた。昨日は走れていなかったし、一週間ほどサウナにも入っていない。犬二匹を連れてビーチを軽く走り、ストレッチをしてじっくりサウナに入る。

外気浴をしているとルークが長距離ランから帰ってくる。今日は22キロ走ってきたという。ちゃんとした練習だ。「君がいいモチベーションになっているよ」先週、彼に七月のマラソンで勝つと宣言してから、ルークも嬉しそうに体づくりを始めているようだ。ランニング仲間がすぐ近くにいるのは楽しい。

夕食にはタロンが鹿肉のフォーを作ってくれる。繊細な出汁が効いていて美味しい。彼は18時過ぎにはキャビンで寝るといって出て行ったので、それ以降は猫と遊びつつ原稿を書き進めた。ちょっとドラマを見て夜更かしをし、2時前にベッドに潜り込んだ。

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