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84)「氣づき」が自分の本質に還らせる

「氣づき」とは何か、を考えてみた。

「氣づき」には色々あるけれど、氣づきが起きると気持ちがいいということだ。

子どもの頃、一人で行動できるようになって探検気分で、近所の使ったことのない道を歩き回っていたら、突然、普段使っているよく知った道に出くわすと「あ、ここに繋がっていたんだ」という気持ちになって嬉しくなった。

点と点が線で繋がったような感覚がして、不思議とスッキリ感があった。

そういったスッキリ感を味わいたくて、また路地の細い道に入って行って探検を繰り返す。

家を中心とした半径数キロ未満の世界だけど、この世界のすべてを知ったような気分になれたものだ。

「氣づき」には発見できたことで生まれるスッキリ感という喜びと、疑問が解消されたスッキリ感があり、これらのスッキリ感が心地よさを与えてくれる。

人は、心地よい感情を繰り返し得たいという習性があるものだから、こういったスッキリ感が、人としての習性に組み込まれているといっていい。

つまり、人がスッキリ感を得ることができるということは、それが「正解」という合図になる。

ここでいう正解とは、その人にとってという意味であり、スッキリ感を得た内容が必ずしも万人に当てはまるという意味ではない。

しかし、氣付きを得ることで得たスッキリ感は、万人に共通するといってもいいだろう。

このスッキリ感を別な言葉で表現すると「目覚め」といってもいいかもしれない。

しっかりとした眠りが採れた朝に感じる「スッキリ感」は、ぼんやりとした状態から解き放たれたスッキリ感に似ている。

疑問があったり、ぼんやりとしか認識できていないことに明確な答えを得ることができたなら、そこにスッキリする感覚を得られるようになり、それが「目覚め」となっていく。

目覚めは認識できたということを意味し、感覚としてのスッキリ感が「それが正解」と教えてくれているといっていい。

そこで、こういった氣づきを生きている間に得られるようになればなるほど、目覚めが加速していくといってもいいかもしれない。

氣づきが人を明晰にする。

「明晰さ」は、氣づきによって知ることができた確信で迷いを払拭することで身に付けることができる。

人は「氣づき」を得れば得るほど明晰さを増していく。

迷いがなくなれば人の目は輝き出す。

仏教に「自灯明」という言葉があるけれど、「自灯明」とは自らの明晰さを灯りとして目の前の道を照らすということ。

目覚めとは「迷いがなくなる」ということであり、安心して腰を据えて生きていけるようになっていくということ。

迷いは目覚めによって消すことができ、目覚めは「氣づき」によって生まれる。

また氣づきの効果として、様々な制限を外していけるようになっていくということもある。

我々は本来、制限のない自由な存在でもある。

現代社会は、それこそたくさんの規則があったりするが、そういったたくさんの規則がある時代は、人類の歴史で見るとつい最近のことでしかない。

もちろん、我々は生きている限りこういった規則を守って生きなければならないものだが「目覚め」が起こると、こういった制限さえ苦にならなくなっていく。

生きていくために何が大切かを知ることができれば、制限をやすやすと乗り越えていけるようになるだろう。

つまり、目覚めには、様々な制約を悠々と超えさせる力があると考えることができる。

どんな状況下であっても、自分を拠り所として生きることができるようになると、そういった制限を制限とは感じさせなくさせる。

「目覚め」が起こると、どんどん制限を感じなっていき、むしろ、生まれ持った自由さを感じるようになっていく。

そして、そういった状態で感じる「自由さ」は、氣付きで得たときと同質のスッキリ感となる。

スッキリ感は、それがどんなに些細なことでも、それが正解と捉えてもいいだろう。

朝の目覚めのスッキリ感も、入浴後のスッキリ感も、何かを達成したあとのスッキリ感も、それを感じることができたとき、それはその人にとっての正解であり、目覚めの状態を体験しているということも可能。

爽やかな風を受けて心地がよいと感じるのも氣づきであり、そうったささいな氣づきでさえ、人の心を心地よくさせるもの。

しかも、こういった小さな氣づきの積み重ねが、大きな氣づきを呼び込む呼び水になっていくことから、日々、氣づきを得ながら生きていくことができれば、やがて迷いを消していけるようになっていく。

「いまここ」が氣づきを生みだす。

「いまここ」が、過去や未来という制限から解放してくれる。

心地よい風を感じるのは、常に「いまここ」であり、未来でも過去でもない。

気づきが生まれる瞬間は、どんなときでも「いま」であり「ここ」で起こるもの。

「いま」を精一杯、楽しんで生きていれば不安が消えていく。

生きるとは今の連続でしかない。

であるならば、今を楽しむほかない。

不安が消えれば氣づきが生まれるものであり、その氣づきによって自分を信じられるようになっていく。

不安が氣づきに蓋をするものであり、今に夢中になって生きれば不安という蓋を取り外すことができる。

ゴールは常に自分にある。

自分を100パーセント認めることができるようになったとき、すべての制限から解放され、自分自身に安堵することになるだろう。

我々は「氣づき」によって、かりそめではない「人としての本質」に還ることができるようになるだろう。

人としての本質は常にスッキリしているものなのだ。





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