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諸行の後は、常に無に戻ること

今回は、諸行無常という言葉を、僕なりの視点で解説していこうと思います。

諸行無常とは、仏教用語で「万物はいつも流転し、変化・消滅がたえないこと」という意味です。

日本では平家物語の冒頭でこの言葉が使われることもあり、どこか寂し気な印象があったりします。

この諸行無常をもう少し詳しく見ていくと、諸行とは「この世の万物は常に変化して、ほんのしばらくもとどまるものはないこと」という意味になりますが、「諸々の行為」と捉えることができるため、日々の行為と考えることができるでしょう。

無常は「常ではない」ということから「一定ではない」ということです。

つまり、諸行無常とは、いつもしている日々の行為であっても、一定ではなく変化しているということとでもあります。

我々の日常の行為には常に「喜怒哀楽」が伴っています。

この「喜怒哀楽」の感情を日々、放置して過ごしていると次第にその感情に引っ張られていってしまったりするものです。

すると、たとえば天気が良くて気持ちがいい日であるのにも関わらず、前日の感情に引っ張られてしまって、苦い思いを抱いたまま生活したりするものです。

しかし、本来ならば、今という瞬間に天気の良さに気づいて生きていたほうが楽しく生きられるものであり、過去の感情に引っ張られることなく、今に生きた方が人は幸せになれるものです。

そこで、一つひとつの行為である諸行の後に、喜怒哀楽のどれかに感情が引っ張られていると感じたら、意識して無に戻るということをする習慣を身に付ければ、いつもフレッシュな気持ちで生きていけるようになると思います。

これが、今日のタイトルである「諸行の後は常に無に戻るという」ことです。

無を別な言葉にするならば「0(れい)」になります。

この「0(れい)」を、喜怒哀楽の4つの感情の中間地点を無の場所であり、ニュートラルな場所と考えることができます。

そこで日々の諸々の行為を終えたあとに「0(れい)」に戻る習慣を身に付けることができれば、いつもフレッシュな気持ちで生活していけるようになるのではないかと思うのです。

では、どのようにすれば「喜怒哀楽」の感情を「0(れい)」に戻すことができるようになるのでしょうか。

「れい」という字は、「冷」「礼」「霊」と書くことができます。

「冷」は「冷静」の「れい」。

「礼」は「礼を尽くす」の「れい」。

「霊」は「魂」という意味の「れい」です。

たとえば、何かしらの行為を終えたあと「喜怒哀楽」の感情に強く引っ張られていると気づいたとします。

この「喜怒哀楽」の感情に引っ張られていることに気づくということは、冷静さを取り戻すということでもあります。

人は冷静さを取り戻すことができたとき、心を「0(れい)」に戻すことができるようになるものです。

また、物事を冷静に受け止めることができるようになると、なぜそういった出来事が起きたのかに気づけるようになるものであり、そういった気づきから次はこうしようといった新たな対策が打てるようになるものです。

そして、こういった気づきを得ることができるようになると、新たな気持ちで前に進めるようになって、人として成長できるようになっていきます。

そうやって日々の出来事の中で気づきを得ることができれば、それがたとえネガティブなことであっても、自身の成長に繋げていくことができるようになって、そこに感謝の気持ちを抱けるようになります。

こういった感謝の気持ちが人を「0(れい)」の場所に戻し、我々の魂である「霊」がますます「0」にもどっていきます。

「霊」とは、元々ニュートラルなものであり落ち着いていて揺ぎのないものです。

人はそういった「霊」の状態に戻ることができたとき、大きな安心感を得られるようになります。

そこで、日々の出来事を冷静に判断できるようになって、それを自分の成長に導いて礼を尽くせるようになったとき、人は魂というべき霊に近づいていけるようになっていくことでしょう。

こういったことから、喜怒哀楽という感情の振り幅をできるだけ「0(れい)」に近づけていくことがでれば、人は安定した状態で生きていけるようになっていくと思います。

喜怒哀楽の幅を狭め人が本来持っている霊としての心地よい状態に戻る習慣を身に付けることができたとき、自分自身に寛いで生きていけるようになるのです。


ネガティブな感情だけでなく、ポジティブと思われる感情を抱いたとしても冷静さを保つ必要はあります。

喜びや楽しさがあまりにも強すぎたりすると、ついつい浮足立った行動をしてしまうものです。

このため、嬉しいと感じる出来事を体験して喜びの感情を十分に味わうことができたなら、一旦、冷静な場所である「0(れい)」の場所に戻れば、浮足立つことなく地に足がついた行動が取れるようになります。

霊性を向上させるということは、どんなときでも冷静さを保ちながら日々の出来事に礼を尽くせるようになることでもあるのです。

そういった落ち着いた状態が、心地よい「0(れい)」の状態なのです。

我々の望みは、常に動じることなく日々を落ち着いて生きることです。

そういった落ち着いて安定している場所に立って生活できるようになるためにも、ひとつ一つの行為の後に「0(れい)」に戻る習慣を身に付けてみてみてもいいかもしれません。

もちろん、すべての行為の後に「0」に戻ることは難しかったりしますが、たとえば、自分の感情が「喜怒哀楽」のいずれかに引っ張られていると気づいたときに、意図して「0」の場所に戻るということをしてみるてみてもいいでしょう。

我々が暮らす人間の世界は、様々な感情が日々が飛び交っていて、そういった感情に影響されていたりすると、自分を保つことが難しくなったりします。

しかし、様々に飛び交う感情に影響を受けることなく安定した自分を保つことができるようになれば、心地よい自分を生きられるようになっていくことでしょう。

我々の望みは冷静さを保ちつつ、日々の生活に情熱を持って生きていけるようになることです。

そういった意味でも、常に「0」の場所に立ち返り、この無常の世界に「自分らしさ」という一本の柱を立てていきていけるようになれば、心地よく生きていけるようになるものです。

感情を味わうことはとても大事なことです。

ただ大切なのはのは、感情に振り回されないことです。

感情に振り回されて、自分自身を見失ってしまってはなかなか前に進むことはできません。

僕はこれまでずっと思考のぐるぐるに悩まされてきたし、今でも思考のぐるぐるが起こることがあったりします。

おそらく、この思考のぐるぐるとはこれから先も付き合っていかなければならないとかと思います。

とはいえ、やり方次第で思考のぐるぐるの範囲を狭めていくことは可能だし、思考のぐるぐるの時間を短縮することも可能だと思っています。

昨晩、そういったことを考えていたときに、ふとこの「諸行の後は、常に無に戻ること」ということが思い浮かんだので、今回記事にしてみました。

今後、何かしらの感情に引っ張られたら「0(れい)」の場所に戻るということを実践していきたいと思います。

どんなときでもリフレッシュしながら新鮮な気持ちで生きていけるようになるといいなと思います。

冷静になって気づきを得、その出来事に対して感謝できるようになる。

それができるようになると、自分の霊性を常に向上させていけるようになるのではないかと思います。

そして、この心地のよさを柱として自分の軸にして生きることができたとき、人は華麗に生きていけるようになることでしょう。

「0(れい)」とは、冷静になって礼を尽くし霊性を上げることのできる場所です。

そこで諸行の後には無という「0(れい)」に戻ることができれば、常に心地よく生きていけると思います。

「0(れい)」という場所に戻って和していく、令和とはそんな時代なのかもしれません。


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