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【エッセイ】東京の水彩画

東京駅地下のカフェは都内の喧騒から隔絶されたようだった。
それは、特に大きな声で話すようなひとがいないというのもあったが、人々の動きがどこか緩慢としていてゆとりがあるように感じられた。
どこか長閑で穏やかな午后一時。ほの暗い店内にはBGMが流れている。ボサノバだ。16ビートを軽やかに刻むドラムにギター。聞きなれた旋律をなぞるハスキーな女性ボーカル。その合間に挟まるクラッシュシンバルは波打ち際のような水音を彷彿とさせる。

ボサノバはブラジルで生まれたポピュラー音楽だと聴いているが、イパネマのビーチには波風に乗って、こんな水音と、温かく湿気た空気が流れてくるんだろうかと、異国の地にふと思いを馳せたくなるような――やわらかに跳ね上がる音だった。
東京にそっと訪れた異国情緒に身を任せ、思考をふとその映像に預けてみた。

このまま、どこかにいってしまいたい。
ここではない、どこかへ。

いつか、X(旧:Twitter)で流れてきた漫画で「どことは言えないけれど、どこかに帰りたい感覚がある」という話があった。それはどこにいても、たとえ家にいても、実家にいたとしても、どこかさみしい感情と共にその感覚があるのだという。それは「私はどこへ帰りたいんだろう」という言葉で締めくくられていた。その漫画を読んで、認知症の祖母もよくうわごとのように「帰りたい」と言っていたことを思い出した。彼女はいったいどこに帰りたかったのだろう。もうわからないことだけれど、時折考えてしまう。

それと似たような話なのかもしれない。
「ここではないどこかへいきたい」といったような心持ちになることが度々ある。それがどこかというのは、あまり明確になっていないので、その時々によって変わる。たとえば、電車の車窓からそっと外を眺めているときや、家路の途中に夕暮れを眺めているとき。私はふと、ここにある現実を手放して、どこか遠くに自分を浮遊させたくなる。それは頭に描いている景色のなかだったり、見ている風景の一部の中だったり、誰かの話のなかにある映像のなかだったりする。

そんなとき、音楽は空想を助長させてくれる。
丸の内の冷たい蒼硝子輝くビル群とアスファルトで構築されたジャングルに、脳内が勝手に作り出した南国の景色が入り混じり侵食していく様は、どこか滑稽だ。今ここに流れているのは「ブラジルの水彩画」という曲だけれど、このまま、この景色が水彩画になったらどうなるのだろう。
連日の睡眠不足でぼんやりとした思考を泳がせる。
混沌に踊る脳内は不思議な異国情緒にそのまま連れ去られ、ゆっくりと微睡のなかに流されていく。

異国情緒という言葉には、もうひとつ想起させられる楽曲がある。
それは、久保田早紀の「異邦人―シルクロードのテーマ―」という楽曲である。CMソングに起用されていたこともあり、聞いたことがあるひとは多いように感じるが、今は知らないひとも多いのだろうか。
ストリングスの特徴的な旋律を聞いただけで、どこか、砂地を連想させるような、空想の世界に連れ去ってしまう。続くAメロの歌詞も、曲のせいでどこか異国の風景を切り取ったように聞こえてしまうけれど、この曲が歌っているのは実は八王子の風景だという。また、この曲はCMソングになるにあたり、プロデュースの関係で、タイトルがサビの歌詞からとられた「異邦人」という言葉に変わったそうで、元のタイトルは2番のAメロの歌詞中にある「白い朝」というものだった。

タイトルは曲の中心になる重要な部分で、いうなれば歌詞の要約になるようなものだと私は考えている。なので、「異邦人」と「白い朝」では歌詞の核になるテーマ性というものか、焦点の合う位置が少し変わってくるのではないかと思ってしまう。編曲は「異邦人」のタイトルに沿ったものになっているので、どこか外国を思わせるような雰囲気になっているけれど、「白い朝」ではどうなっていたのだろうか。

歌詞の内容は失恋をモチーフにしたもので、恋人に置き去りにされてしまった寂寞をうたったものであると捉えてみる。
その内容を要約するうえで、「白い朝」だと、その呆然とした感覚をスケッチしたようなタイトル、「異邦人」だとより自分の中で起こった出来事が明確になったタイトルなのではないか。

つまり、相手とのすれ違いにより生じた、自分の中で当たり前だった概念などの崩落や、そばにあった何かを手放してしまった、そんな寂寞を、崩落したその瞬間に焦点を当てているのが「白い朝」、それを受け入れ、相手と自分を異なるものと結論付け、「わたしなんて、あなたの心象世界の中ではちっぽけな存在で、まるで町中を通りすがりの異邦人のようなものだったのでしょう」と、自分の内側で悟ってしまうような淋しさを、旅愁になぞらえた形に整えているのが「異邦人」であるように、私には感じられた。

旅愁。
ここではないどこかへと思いを馳せるのは、現実から少し逃避するための旅路を探しているからで、それは異国情緒への憧憬がそうさせるのかもしれないけれど。そのほかに、旅には憂いが付き纏うこともある。それは今まで自分が慣れ親しんできた習慣とは別のものを受け入れていく過程に起こる回顧のような。

私の脳内ですっかり水彩画の南国と入り混じってしまった東京だけれど、いまここにある東京の景色も、いずれは変わってゆくものであり、例え電車や車に乗っていなくとも、時間という乗り物に流されていく景色の一部分であることに変わりはないのだろう。
どれだけ時間や異なる価値観に晒されて流されたとしても、風化せず、確かに手元に残るものは何かを探して、空想をしている側面もあるのかもしれない。読書も映画鑑賞も、友人との対話でさえ、誰かの心象風景の内側への旅路であることに変わらないのではないか。その世界の当たり前を見て、触れて、感じていくことは、異国を旅するのに近しい感覚なのではないか。

友人のひとりが「音楽は時間の芸術だ、時間という枠に色塗りをしていくようなものだ」といっていたけれど。

旅先で写真を撮るように、日常から切り取られ加工された非日常。
流されていくそれらの備忘録。

私にとって、それがきっと、東京の水彩画。

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