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大学の選択

 前回書いたように、大学を選んだのは、共通一次と二次試験からの消去法だった。

 その結果、どうなったか、という話は後から来る人のために、しておいた方がいいかもしれない。

 英語(好きな割にはできない)と体育以外の科目は、優で通した、というか、あまり科目を取らず、必要最小限しか取らなかった。何かゆっくり本を読みたかったのだ。後悔していることといえば、司書資格を取らなかったことぐらいだ。
 現役生で入学してきたクラスメイトは、生野・天王寺・三国丘といった名だたるトップ校から、余裕を持って入学してきていて、頭の回転がすこぶる速くて、トロい私などはしょっちゅうやり込められていたが、みな話題豊富で楽しかった。
 それとちゃんとしたお嬢さんが多くて、いつだったか、帰りの電車でクラスメイト7、8人乗っていた時、私が祖母から習ったばかりの裏千家(女手前だから)のお濃い(濃茶手前)の順番を復習しようと口に出したら、次々と全員が「その次は…」「それから引き柄杓して」とその後の手順を他の全員が教えてくれた。

 大学院に進学したのは、やはりトロい私が採用試験に落っこちたからだったが、教育実習の直前に、名古屋であった、中古文学会の春季大会に先生や先輩やクラスメイト2人と行ったことも大きかった。教育実習に行っても、名古屋でみた歌合絵巻とかが頭の中にぐるぐるしていたから。「凡河内躬恒」が「三常」とか書いてあったのだ。

 その頃はあまりよく分かっていなかったが、恩師が大物だということを大学院に入ってから思い知った。今から思えば、NHKが、私たちが学部三年の時に、恩師の授業風景を撮影に来て放映されたのだから、もっと早く気がついても良かったはずなのだが。
 学部四年から神戸平安文学会や和歌文学会、中古文学会に連れて行ってもらっていたので、当時の神戸大学の教授や奈良女子大学の教授、大阪市立大学の増田繁夫教授、大阪教育大学の森一郎教授のご質問やご発表をも聞いていたが、平安文学総ナメで大量の著作があり「(平安文学で)日本で一番は、世界で一番!」と宣うた恩師は、確かに凄かった。

 何も知らずに大学院にまで入ってから、同じゼミの後輩に言われた。「片桐洋一先生がいらっしゃったから、この大学に来たんです」「……(凄っ!)」

 何も考えずに来たワタシは、やっぱりトロかった。案の定、大学院にいた間、しごかれて、散々な目にあった。

 大阪女子大学大学院には博士課程が無かったので、修士三年と、聴講か何かで一年通い、その後、一年、呼ばれて大学院ゼミに参加した。恩師は学長になっていて、本当はゼミは持てないのだが、例の後輩が残っていたのと中国(現代文学専攻)と韓国(近世文学専攻)の留学生が各1名の3人では、レベルが保てないから、という話だった。

 かなり後に、吹田市に一時的に住んで定時制高校で教えていた頃、関西大学大学院博士課程に行こうか迷って、とりあえず吹田市市民講座に行ったら、壇上の田中登先生が話の途中で会場にいる私に気がつき「修士でて、結婚して、離婚して、やっと一人前の研究者になった」と例の毒舌でおっしゃるので、笑ってしまった。

 だから、学問するつもりで進学するのなら、もう少し意識的に調べておくべきだったのだろう。
 ワタシはあくまでも文学少女だった。

 今、学生のみなさんが他山の石にしてくれたら、と思うばかりだ。

 なお、田中登先生は、昨年2023年12月13日にお亡くなりになった。ご冥福をお祈りします。

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