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他者比較の無意味さと、『何者かになりたい』という幻想

社会人になりたてのころ、他人と比較したり、「何者でもない自分」が嫌になってムシャクシャすることが多々あったように思う。

このムシャクシャが本質的な悩みではないことが嫌で、何とかこの感情から逃れられないものか、と考えていた。

最近は何となく自分の中で整理もついて、こういった感情に悩まされることが比較的なくなった気もするので、どう整理しているかについて書いていこうと思う。

醜いアヒルの子の定理

他者比較したり、「何者でもない自分」が嫌になってムシャクシャするときの流れをもう少し分解すると、

まず、他人や「何者かの自分」と今の自分を比較し、その"差分"を自分の未熟な部分や不完全な部分として認識することで発生すると思う。

さらに、その未熟な部分や不完全な部分が、自分のこだわりの強いところだったり、プライドを持っている部分だったりすると、すごく嫌な気持ちになる気がする。

まず、この"他人や「何者かの自分」と今の自分を比較する"こと自体が数学的には無意味なことを説明するのが「醜いアヒルの子の定理」である。

ご存じの通り、「醜いアヒルの子」という童話は、白鳥のヒナがアヒルのヒナの中に迷い込み、「お前は不細工だ!」といじめられる話である。白鳥のヒナは絶望するが、大人になると誰よりも美しい白鳥になりましたという物語である。

「醜いアヒルの子の定理」は、醜いアヒルの子(白鳥のヒナ)と普通のアヒルの子(アヒルのヒナ)が似ている程度が、2羽のアヒルのヒナが似ているのと同じ程度であると言っている。

抽象化すると、「2つの事物があったときに、類似点と相違点を数え上げれば同じ数を上げることができる」、ということを数学の集合論によって証明している定理である。

つまり、アヒルのヒナ⇔白鳥のヒナの間と、2羽のアヒルのヒナ間における類似点・相違点は同じ程度なので、白鳥のヒナを差別する根拠はないということだ。

他者と比較しようが、理想の自分と比較しようが、そこにあるのは類似点と相違点であり、その数は同程度であるし、それは自分と誰かでも、誰かと誰かでも同じである。

なので、その相違点によって自分を卑下する根拠にはなりえないし、そこに正当性はない。全員が「何者かである」し、「何者でもない」のだ。

社会に形作られた「着眼点」

しかし実際に我々は、アヒルの子と白鳥の子を”違う”ものとして認識する。これは、どこに着目して比較するのか、という問題である。

「大人になったときの見た目」や「親が誰であるか」に着目するから、”違う”ということになる。

つまり我々は、他人や理想の自分と”主観的な着眼点”によって比較し、その差分によって一喜一憂するわけである。

ではその”主観的な着眼点”はどこから来るのだろうか?

具体的には、「スキルや資格」「年収や貯金」「顔立ちやスタイル」「会社での評価」「学歴や肩書」とかとかなのだろう。

これらの主観点な着眼点は、社会が作り上げた幻想の価値観である気がする。

この着眼点・価値観の背景には、テクノロジーの発展や資本主義社会の台頭、マスメディアによる流行の提示など時代の流れが存在し、それらに形作られているように思う。

重要なのは、この着眼点・価値観は時代とともに変化する、ということであると思う。常にゴールはなく、時代とともに新しい価値観が提示され続けるのだ。

実際に、縄文時代に狩りの名人で異性にモテモテだった人と比較して自分を卑下する人はいないだろう。(数字としての類似点・相違点は現代人2人間と何ら変わらないと言うのに…!)

つまり、他者比較や理想の自分との比較(特定の価値観に基づいて)によって、作り出した”違い”を努力によって埋めたとしても、時代によって比較する価値観が変わり続けるため、永遠にその”違い”が生まれ続ける。

「何者かになる」ゴールは存在せず、架空のそれと現在の自分を、現在の社会が作り出した価値観によって比較して卑下しても、終わりのない空しい所業なのである。

では、どう向き合うか

他者比較や「何者でありたい」という感情が、ひどく主観的(しかも社会に形作られた)であり数学的には無意味であることを述べてきたが、じゃあ100%無視できるかというとそんなことないと思うし、無視することが正しいとも思わない。

なぜなら、社会的に共通の価値観を捧げ、そこに対して何かを渇望するという作業は人間の本能だからだ。(詳しくは、サピエンス全史を読んでほしい…!)

また、この本能や共通の価値観を信仰する能力によって、人間は食物連鎖のピラミッドの頂点に立ち、今もなお経済発展を続けることができているともいえるからだ。(詳しくは、サピエンス全史を読んでほしい…!w)

ちなみに、この価値観から完全に離脱し、社会的な価値観を何も求めないように振る舞うのが、仏教の「解脱」という概念だと理解している。

ここからは個人的な意見だが、結局自分なりの価値観を形成していくことが重要なんだろうなと思う。

価値観なので、打算的に構築するものでもないと思うが、あえて言及するなら、変動しやすいものと変動しにくいものを分けて考えるのは有効だろう。

変動しやすいものは、社会背景や年齢によって変わることが想定できる「資格やスキル」「社会での影響力」「会社での評価」だったりするのだろう。

変動しにくいものは、少なくとも自分の人生で大きく変わることは無さそうな「生まれ育った環境から構築された価値観」「家族を持つ幸せ」「自由に使えるお金と時間」なのだろうか。

このあたりを踏まえつつ、何に重きを置くかをバランシングしながら自分なりの価値観を形成し、そのうえで幸せに生きれたらいいなと思う。

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