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#71 菜根譚

"菜根譚"を読了。
儒教、道教、仏教の3つを極めた、明時代末期に洪氏が記した哲学書。
スキルよりも道徳の重要性を繰り返し語っている内容で、どのフレーズも重みがある内容。
諸子百家の有名どころを読んでいたこともあり、当然ながら関連する内容が頻出して、より一層自分の中に入ってくる感覚があった。
学びは当然多かったが、特に印象に残ったのは下記の3点。

  • 人間は平素、常に耳には聞きづらい忠言を聞き、常に心には思い通りにならぬことがあって、それでこそ徳に進み行を修めるための砥石となる。

  • 他人の過ちは許すが良いが、しかし自分の過ちは決して許してはならない。また、自分の辛いことはじっと耐え忍ぶが良いが、しかし他人の辛いことは決して見過ごしてはならない

  • 人生は少しだけ減らすことを考えれば、その分だけ世俗から抜け出すことができる。それなのに、日毎に少し減らすことを努めないで、かえって日毎に少し増すことを努めている者は、全くその一生を自分から手枷足枷で束縛しているようなものである。

かなり良い内容だったな〜。
超良書!
以下、学びメモ。

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・★人間は平素、常に耳には聞きづらい忠言を聞き、常に心には思い通りにならぬことがあって、それでこそ徳に進み行を修めるための砥石となる。★
・天地は全く寂然としていて動かないが、その間にも天地のはたらきは、休むことなく止まることもない。
→★それ故に君子は、暇な時には咄嗟の場合に応ずる心構えを持つ必要があり、反対に、忙しい時には悠々閑々たるゆとりある趣を持つ必要がある。★
・狭い小道では、まず自分が一歩避けて相手を先に行かせてやり、また美味しい食べ物は自分の三分減らして相手に譲り十分に食べさせてやる。
→★一歩譲り三分を減らして与えるという心がけこそ、世渡りの一つの極めて安楽な方法である。★
・★他人の悪を責めて善に向かわせようとする時、あまり厳しすぎてはならない。その人が、それを受け入れられるかどうかの程度を考える必要がある。また、人を教えて善をさせようとする時、あまり高すぎてはならない。その人が、それを実行することができるかどうかの程度を考えて、実行できるようにしなければならない。★
・食欲を満たした後に味のことを思ってみると、美味い不味いの区別もすっかりなくなり、情事を満たした後に色欲のことを思ってみると、男女の欲もすっかり消えて無くなる。
→★それ故、人は常にその事が終わった後の気まずさを思い浮かべて、そのことに臨んで、その場で起こる愚かな心の迷いを醒ますようにすれば、本心がしっかりと定まって行動に間違いが無くなる。★
・弟子を教育するのは、ちょうど箱入り娘を養育するのと同じで、最も大切なことはその出入りを厳重に監督し交友に注意することである。もしこの点をおろそかにし、一度、よからぬ者に近づいたら必ずその悪風に染まってしまう。
・★君子たるものは、人目につくところで罪を得ないようにしたいと思ったら、まず人目につかないところで罪を得ないように心がけるべきである。★
・心はいつも空虚にしておかねばならぬ。空虚であれば、道理が自然に入ってくる。また、心はいつも充実しておかなければならぬ。充実していれば、物欲が入る余地はない。
・まだ成就していない事業の完成を焦るよりも、すでに完成している事業を永く保ち発展させる方がマシである。また、過去の過失をいつまでも後悔するよりも、将来の失敗を早く予防する方がマシである。
・静かなところでしか保てない心の静けさは、本当の静けさではない。目まぐるしいところでも心を静かに保つことができるようになってこそ、本性の真の境地である。また、安楽な環境の中でしか感じられないような心の楽しみは、本当の楽しみではない。苦しい環境の中でも心を楽しく保つことができるようになってこそ、心の真の働きを見ることができる。
・★老後の病気は、すべて若い時に摂生しなかった報いであり、下り坂になってからの災いは、すべて盛んな時に無理をした罰である。そこで君子たるものは、羽振りの良い満ち足りた時に当たって、特に恐れ慎むことを要する。★
・★徳というものは度量に従って向上し、度量は見識に従って成長するものである。そこで、その徳を厚くしようと思えば、その度量を広くしなければならぬし、その度量を広くしようと思えば、その見識を高くしなければならなぬ。★
・★悪党を取り除き、へつらう輩を防ぐには、彼に一筋の逃げ道を用意しておく必要がある。★
→もしも彼に一箇所も身を置く場所がないようにしてしまうと、例えば、ネズミの穴を防いでしまうようなものである。すべての逃げ道を塞いでしまうと、苦し紛れに大事なものでも、すべて噛み破られるに違いない。
・水は網さえ立たなければ自然に静まるものであり、鏡は塵や埃で曇らなければ自然に明らかなものである。そこで、人は心も無理に清くすることはない。その心を濁らすものを取り去れば、本来の清さが自然に現れてくる。楽しみも必ずしも外に求めて行かなくとも良い。その心を苦しめる雑念を取り去れば、本来の楽しみが自然に生じてくる。
・★他人の過ちは許すが良いが、しかし自分の過ちは決して許してはならない。また、自分の辛いことはじっと耐え忍ぶが良いが、しかし他人の辛いことは決して見過ごしてはならない。★
・口上手な食わせ者に会ったならば、真心を持って感動するようにし、力自慢に会ったならば、穏和な心を持って感化するようにし、心のねじけた小悪党に会ったならば、正義と意気の人の道を持って励まし導くようにする。このように心がけると、この世の中には教化できない者はいないようになる。
・★大事業を成し遂げる人というものは、多くは虚心で円滑な人である。これに反して、事業に失敗し機会を失うような人は、必ずかた意地で執念深い人である。★
・★口こそ心の門である。この口をしっかりと守り言葉を慎まないと、つい心中の機密を漏らしてしまう。また、意こそ心の足である。この意を厳しく取り締まらないと、すぐ構造に逸れてしまう。★
・人は心の中に物欲さえなければ、それでもう心は澄み切った秋空や雨の晴れ上がった海原のように明るい。また、身近に琴と一、二冊の書物さえあれば、それでもう身は仙郷にいるように脱俗の思いがする。
・★人は何事につけ、思い切って即座にやめればそれで即座に蹴りがつくものである。ところが、もしやめるのに適当な時機というものを見つけてからと思うと、いつまで待ってもその自機は来るものではない。★
・一歩先んじようと争う小路はひどく狭い。そこで人より一歩だけ退いて通るようにすれば、自然に一歩の分だけ広く平らかになる。また、あまり濃厚な味のうまさは、長続きはしない。そこで人より一分だけ軽くあっさりするようにすれば、自然に一分のぶんだけうまさが長続きする。
・★禅の極意を説いて言う「腹が減れば飯を食い、腹がくちくなれば眠る」と。また、詩の極致を説いて言う「ただ目前の景色を写し、普段用いる言葉で述べる」と。思うに、禅において思っとも高遠な道は最も平凡なことの中に宿っており、最も平凡なことの中から出てくる。また、詩において、ことさら意を用いた者は、かえって真実に遠ざかり、無心なものの方がかえって自然と真実に近いものである。★
・★世間の人々は、ただもう「我」という一字を、あまりにも真実なものと考えすぎている。それで色々な好みや煩悩が多くなってくる。古人も言っているが、「我のあることもまた知っていないと、どうして、その我に対してある物の貴いことを知ることができようか」と。また言うに、「わが肉身は仮のものであるから、我ではないと知っておれば、煩悩などどうして我を悩ますことがあろうか」と。これらは真理を看破した名言である。(我にして我にあらずの真理を看破している)★
・★人生は暇がありすぎると、かえって雑念が密かに起こってくるものであり、反対に、あまり忙しすぎると、かえって本性がなかなか現れてこないものである。そこで君子たるものは、身心を労して精進せねばという終身の憂いを持たねばならぬが、同時にまた、風流の趣を理解し楽しむことを心がけねばならぬ。★
・★人生は少しだけ減らすことを考えれば、その分だけ世俗から抜け出すことができる。それなのに、日毎に少し減らすことを努めないで、かえって日毎に少し増すことを努めている者は、全くその一生を自分から手枷足枷で束縛しているようなものである。★

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