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【科学者#011】数学を化学に適用した科学者【ロバート・ボイル】

現在、科学を勉強するには数学が絶対必要になってくるというイメージが強いですが、昔は科学と数学は別々に研究されていました。
そんな、科学のうち化学に数学を導入したのがロバート・ボイルになります。
そしてボイルは、『すべての科学は数学の応用として開発されるべきである』と主張します。


ロバート・ボイル

ボイル

名前:ロバート・ボイル(Robert Boyle)
出身:アイルランド
職業:自然哲学者、化学者、物理学者、神学者、錬金術師
生誕:1627年1月25日
没年:1691年12月31日(64歳)


業績

ボイルの法則

ボイルの法則は、高校の物理で学ぶので聞いたことがある人が多いと思います。

ボイルの法則とは、
温度が一定の場合、気体の体積は圧力に反比例する
というものです。

この法則は、1662年にはじめてボイルによって示されました。


他の業績

ボイルはボイルの法則以外にも様々な研究をして業績を残しています。
一部ですが紹介したいと思います。

音の伝播に空気が果たしている役割の解明
水が凍結する際の膨張力の研究
比重と屈折の研究
結晶の研究
電気の研究
色の研究
流体の静力学の研究
物質の基本構成要素として元素の存在を認め混合物と化合物を区別した

化学から物理学まで様々なジャンルの研究をしていました。

さらに、錬金術師としても研究しており、ボイルは金属を変質させる可能性を信じていました。

ちなみに、1670年頃から水銀についての研究でアイザック・ニュートンと文通をしていました。

ニュートン

ボイルの助手のフックとニュートンは仲が悪くて有名ですが、実はボイルとニュートンは交流があり、ニュートンにとっては友好的に文通できる数少ない人物でした。


生涯

幼少期~生活が落ち着くまで

ボイルは、プロテスタントの家に誕生します。

ボイルは、父親の2番目の妻の子どもになります。
(1番目の妻は最初の子が生まれて1年以内に亡くなる)

父親が60歳で、母親が40歳のときにボイルは7番目の息子として誕生します。
ちなみに、全員で15人子どもがおり、ボイルは全体では14番目の子どもになります。

父親は1588年からアイルランドの復帰地副監理官として働いており、ボイルが生まれたときには大地主になっていました。
そして、ボイルは幼い頃に一時期現地の一家に里子に出されます。

ボイルは12歳ごろには、フランス語、ラテン語、修辞学(思想感情を効果的に伝達するための原理を研究する学問)、宗教、数学を学んでいます。
ちなみに、数学は特に数論、幾何学に精通していました。
さらに、1641年にはイタリア語を学びます。

ガリレオ

ボイルは1642年のはじめまでフィレンツェに居て、ちょうどその時ガリレオ・ガリレイがフィレンツェ郊外のアルチェトリにある別荘で亡くなります。
ボイルはこの出来事に大きな影響を受け、ガリレオの研究を特に集中して学び始めます。

この時期ボイルは家庭教師と2人で暮らしていたのですが、1642年くらいから父親からの送金が届かずに家庭教師の収入で暮らしていました。
この時父親は、アイルランド南部にあるリズモア城でアイルランド人と戦っており、1643年9月に父親は亡くなってしまいます。

そして1644年夏、ボイルは装飾品を売ってお金を作り、イギリスへ帰国します。

父親は、ボイルにはイングランドのスタルブリッジの邸宅である財産を残します。

ボイルはそこに約6年間とどまり勉強をしますが、その間アイルランドとの戦争が繰り返されます。

1653年にアイルランド人がオリバー・クロムウェルに敗れ、アイルランドの土地をイギリスの入植者に割り当てます。
このことにより、ボイルに多額のお金が手に入り、科学の研究に専念することができるようになります。


科学者とのつながり

1654年からはオックスフォードに住みます。
そこでボイルは、オックスフォード実験哲学サークルに加わります。

そこでは、
数学者のジョン・ウィルキンズ
数学者のジョン・ウォリス
天文学者のクリストファー・レン
などの科学者と知り合います。

そして、この時期にフックと知り合います。

ゲーリケ

ボイルは、1657年にオットー・フォン・ゲーリケの空気ポンプについて目にします。
ロバート・フックを助手として空気ポンプの製作をし、1659年に完成させます。
そして、その空気ポンプを使って実験をはじめます。


王立協会

1663年にはロンドン王立協会が発足し、初期のメンバーとして活動します。
1680年には会長に選ばれたのですが、プロテスタントとしての信念に基づいての就任の誓いの内容にためらいを覚えたので、会長職を辞退しています。

バロウ

1668年からはロンドンで暮らし始めるのですが、その時に隣に住んでいたのがイギリスの数学者であるアイザック・バロウ(1630年~1677年)でした。

ボイルはもともと身体が丈夫ではなかったのですが、1689年にはめっきり体は衰えてしまいます。
そして、1691年12月31日に病気によって亡くなってしまいます。


ボイルという科学者

ロバート・ボイルは近代化学の祖とよく言われています。
ボイルの法則があるので名前は知っている人も多いと思いますが、その生涯で貴族の家系だったことや、ロンドン王立協会の創設者のひとりだったことはあまりよく知られていないと思います。

そして何よりも、現在の化学の発展があるのは、ボイルが数学を化学に適用したからといっても過言ではないと思います。

そんなボイルという人物の凄さが、少しだけでも伝わっていたのならとてもうれしいです。


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