【科学者#075】有名になることを嫌っていた寡黙な理論物理学者【ポール・ディラック】
1933年のノーベル物理学賞は、原子論の新しく有効な形式を発見した人として2人の科学者が受賞しています。
1人は、第57回目で紹介したエルヴィン・シュレーディンガーが受賞しています。
シュレーディンガーは、小さい頃から父親の影響もあり多方面に興味を持ち色々な大学を渡り歩き研究を続けました。
これに対してもうひとりの科学者は、とても寡黙で、さらに謙虚な性格で、知人の顔を見分けられなかったと言われています。
今回は、有名になることを嫌っていた寡黙な理論物理学者であるポール・ディラックを紹介します。
ポール・ディラック
名前:ポール・エイドリアン・モーリス・ディラック
(Paul Adrien Maurice Dirac)
出身:イギリス
職業:理論物理学者
生誕:1902年8月8日
没年:1984年10月20日(82歳)
業績について
ディラックは、量子力学や量子電磁気学の分野で多大な業績を残すのですが、その中でも電子の相対論的な量子力学を表すものとしてディラックの方程式を考案します。
この背景としては、非相対論的なシュレーディンガー方程式を、相対論へ対応するため拡張するとき、はじめはクラインーゴルドン方程式が考案されます。
しかし、これでは問題が生じたため、ディラックは1928年にディラック方程式を基本方程式とする相対論的量子力学を考案するのですが、これにも欠陥が見つかってしまいます。
1930年にディラックはディラックの海の概念を考案し、現実の現象を説明することができる理論として広まっていきました。
その後は、リチャード・P・ファインマンなどにより拡張や解釈の見直しが行われ、ディラックの海を考えなくても問題なく扱えるようになります。
生涯について
ディラックの父親はスイスの移民で、フランス語の教師をしており、母親はイギリス人で2歳年上の兄と4歳年下の妹がいました。
ディラックの家庭では、父親と話す際はフランス語で話す規則があったため、フランス語を話せなかったディラックは沈黙することが多かったです。
そのため、この頃から非常に無口だったと言われています。
1914年には、父親がフランス語の教師をしているマーチャント・ヴェンチャラーズ・スクールに入学します。
そこでは、歴史とドイツ語を除きクラスでは首席でした。
1918年には、マーチャント・ヴェンチャーラーズ・カレッジに16歳で入学し、工学を学びます。
数学では学生の中でもはるかに上のレベルにいたのですが、不器用だったので実験室での作業は苦手でした。
1921年には、ブリストル大学に入学し、電気工学と数学を学びます。
1922年には、ケンブリッジ大学に入学し、ラルフ・H・ファウラーのもとで勉強し、1925年には鞍点(あんてん)法を考案し、ファウラーの下で統計力学の仕事に携わります。
1926年5月には量子力学の学位論文で博士号を取得し、さらに同じ年にはコペンハーゲンのボーア研究所を訪れて、第32回で紹介したヴェルナー・ハイゼンベルクなどのボーア門下の理論家たちと交流をします。
1928年には、ディラック方程式と呼ばれる電子を記述する新しい相対論的な波動方程式を導出します。
1929年の夏には、ハイゼンベルクと共に日本での学会に向けて航海へ出ます。
ちなみにハイゼンベルクは社交的で、船の上では女性に声をかけダンスをしていました。
そのときに、ディラックはハイゼンベルクに「なぜ女性とダンスをするのか?」と尋ねたところ、ハイゼンベルクは「素敵な女性がいるんだから楽しいでしょう」と答えます。
その答えに対してディラックは、「でも、ハイゼンベルクはどうやってその子が素敵だと分かったんだい?」と返しました。
1930年には王立協会のフェローに選出され、1932年にはケンブリッジ大学のルーカス教授職を勤めます。
ケンブリッジ大学の同僚はあまりにもディラックが寡黙だったため、冗談めかしてディラックという単位をつくりました。
ちなみにこのディラックというのは、1時間に1単語のことになります。
そして、1933年にはノーベル物理学賞を受賞します。
実はディラックは有名になることを嫌っていたため、ノーベル賞が決まった際には有名になることを恐れ辞退しようとします。
そのとき、第55回で紹介したアーネスト・ラザフォードが「もしノーベル賞を断ったら、君はノーベル賞をもらった場合より、もっと有名になる」といって説得しました。
1937年には、ユージン・ウィグナーの妹であるマーギットと結婚します。
このマーギットには、ハンガリー人の前夫との間に息子と娘がいたのですが、ディラックとの間には1940年と1942年に2人の娘が誕生します。
1939年にはロイヤル・メダルを受賞し、1952年にはコプリ・メダル、マックス・プランク・メダル、1964年にはヘルムホルツ・メダルを受賞します。
そして1984年にフロリダ州で亡くなってしまいます。
ディラックという科学者
ディラックの性格は、極めて寡黙で、知人の顔を見分けることができませんでした。
さらに、単純な質問を理解できなかったり、話しかけてもなにも返ってこないか、イエスかノーで返事をするのが日常でした。
そんな、アルコールは一切飲まずSFが特に好きだったディラックには、様々な逸話があります。
友人である第38回で紹介したロバート・オッペンハイマーは詩を愛していたのですが、そんなオッペンハイマーに対してディラックは「誰も知らないことを誰でもわかる言葉で語るのが物理学だ。誰もが知っていることを誰にもわからない言葉で語るのが詩だ」と批判します。
さらに、第27回で紹介したニールス・ボーアが書きかけの論文の最後のまとめ方が分からないと文句をいっているのをディラックが聞いており、「私は学校で文章は終わりを考えずに書き始めてはいけませんと習いました」っとボーアに言います。
この他にも、あるときディラックが講演を行ったあと聴講者の1人が手を上げ「黒板の右上の方程式が分かりません」と聞いたところ長い沈黙が続き、司会者はディラックに「答えますか」と聞くと「それは質問ではなくコメントです」とディラックは答えました。
このように、ディラックには面白い逸話が残されています。
ディラックは小さい頃から寡黙であまり語らず苦手なことも多かったのですが、量子力学などの分野で多大な貢献をしました。
今回は、有名になることを嫌っていた寡黙な理論物理学者であるポール・ディラックを紹介しました。
この記事で少しでもディラックについて興味を持っていただけると嬉しく思います。
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