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『おいしいとはどういうことか』

昨日、私は久々に夜更かしした。ある本に夢中になっていたからだ。

その本というのがこれ。

『おいしいとはどういうことか』中東久雄

これは、京都で大人気の料理屋を営む著者が、「おいしい」ということを考察した著である。

正直、この「おいしい」に正解はない。でも、私はこの本の内容を非常に身に染みて感じ、激しく共感した。

現在、私はオンラインで食品販売を行っている。地球の裏側にあるアフリカのガーナでつくられた無添加のドライフルーツを、日本の皆さんへお届けしたいからだ。

そして、食品を届ける者として、著者の「おいしい」の考察には、とても考えさせられるものがあり、背筋の伸びる思いを感じた。今日はこの「おいしい」以外にも、食を提供する側として、感じたことを自由に書いてみようと思う。

食材への礼儀を忘れない

この本には「食べることは殺すこと」という、少し強烈な言葉が出てくる。これは、つまりはこういうことだ。

私たちが食べているものは、動物植物を問わず、みんな命があるわけです。牛も鶏も豚も、人参も大根もジャガイモだって、みんな命はひとつですから。その命は大切にしないといけない。  理屈ではなく、畑に通っていると自然にそう思うようになります。  そしたら食べられるものは、みんな食べ尽くす。それが命への礼儀やと思います。

今日あなたが食べたごはんだって、雑な言い方をすれば、動物や植物の「死骸」。全て、そこに生えていた植物の根っこを引き抜いたり、動物や魚を殺して調理したものが、食卓に並べられる。

つまり、私たちがいただいているのは「命」

ドライフルーツだって、元々畑に生えていたパイナップル、マンゴー、パパイヤ、ココナッツの実を獲って、人間が保存して食べやすいように乾燥させたもの。元々は、命ある植物だったわけである。

どうしても、「命」というと、普段身動きしている動物の方がイメージしやすいが、動かなくてもそこで育ち続ける植物だって命。太陽の光、強い雨風にさらされながら、動かずそこでずっと根をはって立ち続ける、とても強い命。人間が「同じことしろー!」と言われても、正直無理である。

そうした力強い植物の恵みを、私たちは享受している。だから、可能な限り保存や見た目のために、人工的なものを塗ったり漬けたりせずに食べることが、命をいただく身としての礼儀だと思う。

当店としても、お客様へ食の選択肢をご提供している以上は、そうした「食材という命への礼儀」を忘れず、素材だけのものをご提供するのが責任。SDGsの「つくる責任」「つかう責任」にも繋がるが、「提供する責任」でもある。可能な限り、素材に失礼のない製品をご提供したい。

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美味しさを演出する

「提供する側として、素材に失礼のないものを」というのは、上記の通りだが、提供する際も、心がけたいことがある。

私は、お客様に商品をお送りする際、「どうしたらこの美味しさが伝わるか」を考えている。美味しいものは、「はい、これ美味しいでしょ?」とそのまま出しても美味しいのかもしれない。

でも、自分がご提供する際「どういう演出をしたらお客様にもっと美味しさを感じていただけるのか?」「どうしたらお客様に感動してもらえるか」という想像力を働かせる。その少しの愛情や、演出みたいなものって、すごく大切だと思う。

この本の中にも、著者がお客様に皿やお椀を出す際、そこに一言添える、ということが書かれてある。

そやから私はそれぞれの皿やお椀をお出しするときに、そこに一言添えることにしています。いえ、たいしたことをいうわけやありません。  たとえば皿の上にのっている野菜や野草がどういうものなのか、それを今朝どこでどんな風にして採ってきたのか。そのとき、どんな風が吹いていたとか、畑はどんな風に見えたとか、山藤が咲き始めたとか、川で魚が跳ねるのを見たとか……。  言葉を添えて、大原の景色を想像したり、貝割れがかぶった土を押して出てくるところを想像したりすることによって、味や香りは何倍にも膨らみます。

私はガーナの生産地に行ったことはないけれど、今年中に一度農家さんや工場を訪問したいと思っている。それは、お客様へ現地の生の空気感や肌で感じる情報をお伝えするため。

著者が毎朝食材を仕入れに畑へ出かけて肌で感じたことを、料理を出す際に添えているように、私も、そうした空気感のようなものを、自分で感じ、自分の言葉でお客様へお伝えしたい。

そして、それをする理由というのがこの文。

ただなんとなく食べるんじゃなくて、納得して食べることによって、この味が 五臓六腑 に染み渡る。  ほんまはご一緒に野山に出かけ、畑を歩いたりして、自分の手で摘んで食べれば、その味も香りもようわかるんですが。それができない分を、私が言葉で補う。  言うなれば、それが私の「仕掛け」です。

まさにこれが、私のやりたいこと。お客様全員を農場や生産現場でお連れできない分、私が手足を動かした情報を、詳細に伝えたい。私というフィルターを通したリアルな世界をお伝えしたい。それを、海外に行ける状態になったら、やりたいなぁと思っている。

今、コロナでなかなか海外へ出向けないので、ガーナ現地のWad社スタッフへ情報発信をお願いしているが、正直、難しい。

今まで受注生産に従事していたメンバーのため、プロモーションやマーケティングは全くといいほどしてこなかったのだ。何度もお願いして、ようやくインスタやFacebookアカウントを作成してくれたけど、投稿3回して終わっていたり。今までやっていなかったことを、こちらの依頼でやれ、というのは結構難しい。これは、私が現地に行ってやろうと思ってる。

これも、自然の恵みをそのまま味わっている、ということを食べる方へお伝えしたいから。

話を戻そう。笑

結局「おいしい」ってなんだ?

ここまできて、「結局、おいしいって何?」と思われた方もいるだろう。

人は美味しいものを食べると、心から「生きている喜び」を感じる。

テレビの食レポでよく見かける光景だが、一口口にしただけで思わず無言で踊ってしまうような、そんな味に出会ったことは誰しもあるだろう。

美味しいものを食べると、感情が揺さぶられたり、時には感動して涙が出ることさえある。砂糖や人口甘味料だらけのミルクシェイクを飲んで、そんな感情に惹かれる人もいるかもしれないが、大抵の場合は自然の恵みを受けて育った「素材の味」を口にした時、心が動くのではないだろうか。

例えば、何の変哲もないおにぎり。
炊飯器よりも、土鍋で炊いた方が美味しいのは、やはり土という自然の恵みから作られたツールを使い、自然で採れたお米を炊くからではないだろうか。

そして、それを食べるのと最高に美味しいと感じるのは、ショッピングモールや渋谷センター街のような人に溢れた人工的な場所ではなく、山の頂上や、広い自然公園にといった、自然を感じられるシーンではないだろうか。

それは、食材の「素材の味」の中に、その素材の「命」や「生い立ち」を感じるからではないだろうか。

例えば、当店のドライフルーツに例えると、ガーナの大地で無農薬、有機肥料だけを使い、手間暇かけて作られた。乾燥させる過程でも、素材以外に何も加えず、採れたフルーツそのものの味だけを噛みしめることができる。

食べた人ならわかるが、一口かじるだけで、どこまでも続く広大なアフリカの大地(行ったことがなくても)を感じる。そして、嬉しくなって、踊りたくなって、生きるエネルギーが湧いてくる。それは、太陽をたっぷり浴びた自然の「命の味」がするからではないだろうか。

つまり、その素材がギュギュギュっと吸収した「自然の恵み」こそが、「おいしい」の正体だと私は思う。

結論、ガーナ産ドライフルーツは、やっぱり、おいしい。(笑)

やっぱり生きたもの、自然のものを食べるからこその、目の輝きやと思います。  生きたものを食べると、心の底から喜びが湧いて、その喜びが生きる力になります。  生きたものを食べると、生きる力が湧いてくるんです。  

以上が、私なりのこの本の感想である。

あなたなりの「おいしい」って何だろう?

これだけ世の中に食べ物が溢れ、忙しすぎる現代人は、それをていねいに選んだり味わえていない。心が躍る食事ができていないと、毎日が味気ないものになって、人生に潤いがなくなってしまう。もっと雑味のない自然の味を楽しむことができたら、生きる勇気って、もっと湧いてくるんじゃないだろうか。

何を食べるか、誰と食べるか、どこで食べるか。

そういったことを総合的に見て、あなたなりの「おいしい」を考えてみてはいかがだろうか。

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