生き辛さが表に出始めたのはいつごろか
Hello!
今日は少しエッセイを書いてみようと思います。よろしければ読んで下さい。
今日は生き辛さについて。この問題、日本で表面化したのはいつごろか考えてたんです。
というのは、昔も生き辛さを抱えていた人たちは確かにいたと思うんですよね。でも、現代ほど生き辛さを訴える人が増えた時代はないんじゃないかと思っていて。
いや昔は昔で大変な時代で、食べていくのに必死だったから、生き辛さも糞もあったもんじゃなかったっていう意見もあるとは思うのですが。
私は時代と時代を比べるのはナンセンスだと思っていて、というかあらゆる比較がナンセンス(理科的実験・数学的論理は別)だと思ってます。
それぞれに抱えている問題が違うからです。
今は今抱えている問題を解決していくべきだと勝手に思ってるんですよね。
生き辛さ、繊細さんがこうまでクローズアップされたのって、少し前あたりだと思ってます。
自分はHSPだと感じる人たちが増えて、それに呼応するように、繊細さんと主張する人に反発を覚える人も微かに出現して。(表立っては反発してないと思うのですが)
何それ?私たちが、繊細なあなたに全て合わせろっていうの?みたいな胸糞悪い意見を見たこともあります。実際。
で、自分は繊細だと感じていても、その反発が怖くて、繊細さを隠してしまうみたいなこともあったように感じます。
でね、こうした生き辛さみたいな感覚って、いつごろから出現したのか、という疑問に私なりに考えてみました。
ここから先はあくまでも私個人の意見です。誰か特定の人や事象を問題視するものではないので、ご了承下さい。
その前に、何があったのか、ということを思い出して欲しいのです。
繊細さんが現れるそれより前。
こんな言葉が流行りませんでしたか?
「鈍感力」
たしか、ものすごく市民権を得たのを覚えています。本のタイトルにもなっていたような。
私はこんなところで、大御所に喧嘩を売ろうとは思ってないので、検索して詳しく調べようとは思わないのですが。
私は当時悩みがあったときに、あなたは気にしすぎと相談相手に鈍感力って言葉を何回も使われた記憶があります。
っていうくらい浸透していて、やがてそれは落ち着いたけど、その後にそれと相反するように、繊細さんが出現したと思います。
当時の私は、「鈍感力」が世間に浸透していくのが凄く怖かった。胸がざわざわしたことを覚えています。
だって、鈍感って気質でしょ?なれるものではなかったから。
ずっと昔から気にしいで、人の顔色からその人が何を考えているか大体感じ取れるし、その言葉の根っこの部分の思考までたどれるくらい感じやすい私としては、気にするなってことが出来なかったからです。
鈍感力が市民権を得ていまや当たり前に使われるようになってから、余計に隅っこに追いやられていた繊細な人たちがいたわけです。
HSP(Highly Sensitive Person)という言葉と概念が外国から入ってきたときに、ああ、やっと自分を表してくれる言葉と出会ったと、その時思った人が大勢いたんだと思うのです。
それは、本当に自分を正しく表現してくれて、鈍感力が堂々と市民権を得ている日本で、すごい勢いで広まっていった。
そんな記憶があります。
皮肉ですね。
当時の私の悲しみと同じように感じていた人もきっといたはずです。
だって、世界は多様性とかSDGsとか、人にも動物にも地球にも優しくあろうっていう方向に行ってたのに、なぜか日本だけ、鈍感の方へ行こうとしていたから、私はすごく嫌でした。恐怖でした。鈍感力。頭ぶん殴られるような気分になる言葉。
揺り戻しが来たんだと思ってます。誰かの痛みの、揺り戻しが。鈍感力に押しつぶされそうになっていた人たちの悲しみが。
というわけで、今日はこのessayを閉めますが、この記事に書いたことはあくまで私個人の見解なので、ご理解下さい。
もっともっと、個人が生きやすい社会になったらいいなと思います。どんな個性や性質をもった人も存在を認められて、隅っこに追いやられない世界があるといい。
私は表面だけ美しい社会ではなくて、優しい人が報われる社会になって欲しいと思っています。
そのためにはどうあるのがいいんだろう。考えるのをやめないことが一番かな。
それでは、See you next!
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