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ひとはなぜ服を着るのか①


今回は鷲田清一さんの「ひとはなぜ服を着るのか」について

考えていきたいと思います。


鷲田清一さんの文章ってよくセンター試験や特に早稲田の国語の入試問題に

使われるので読んだことがある人が多いかもしれません。


鷲田清一さんは他にも「モードの迷宮」やなど

ファッションについて、人が服を着ることについての本質的な

ことに焦点を当てて分析しています。


ファッションの基本構成要素に次の12項目を挙げています。

顔、化粧、皮膚、匂い、身体、下着、マネキン、スポーツ、モード、スタイル

です。

切り口が独特で視野が広がった気がします。単に服飾の歴史を追うだけでなくある切り口からふかぼってっていく事で多面的にファッションやモード服について捉えることができます。


この記事では以下の項目に触れてみたいと思う。

モード化する社会


まだ着れるけどもう着られない。物への欲望は、どうしてこんな動きをするのでしょうか?

冒頭のこの疑問からスタートします。


その答えを簡潔にこう答えています。

欲望の対象になっている物をモノとカタカナで表現するなら、モノには単なる物的な特性だけではなく、イメージ的な特性や象徴的な意味といった、社会的な記号としての働きがあるからです。


現代のように高度消費社会においては、そういう社会的な記号を諸費するということがモノを選び購入するときの基本的な動機になっている場合が多いのです。

と綴っています。

モードは反モードであるのもすらモードに組み込む力があるといいます。

そうであるならぼくたちはどうしたらいいのでしょうか?

現代社会に生きる限りモードの影響を受け続けるのでしょうか?

このモードの概念に引き込むのは時間感覚だといいます。

ここにモード脱却のヒントがあるかもしれないとあります。


非常に抽象的な那覇市ではありますが、なんとなくこの考えは自分でブランドを立ち上げる上で大切にしたい一つの論点です。


ファッションデザインの可能性


僕がファッションデザイン、アパレルに惹かれるのは可能性を感じるからです。もちろんそれは簡単に儲けができるとかの次元じゃなくて。


時代を超えて、文化を超えて、分野を超えて影響力があることです。

単なる服を超えてアートに昇華させたいという願望があります。


この本では

ファッションには異なった文化や思想の伝統の隔たりを軽々とまたぎ越してしまうようなパワーがあります。

と断言しています。確かに音楽にしてみれば、メロディーを通じて心を通わせられても言葉の壁にぶち当たります。食べ物にしても長い年月のかけて形成された味覚文化は短期間での浸透は難しいです。

一方で日本が着物を捨て洋服をきた例を考えるとファッションの力は異常です。


衣服のホスピタリティ


服は他人の視線のためにあると言う考え方。


服というとというとすぐセンスが問題にされますが、

それは自己表現であるのと同時に

他人の視線をデコレートしたり、他人の存在を迎え入れたり、時には他者の存在を拒絶したりもする、

そういうその都度の他社への関わり方のモードのことを言うのではないでしょうか。

鷲田清一さんのこの服と他者との関係性の中に服づくり、ファッションのヒントがあると思いました。

一般にブランドのものの服を着ることは承認欲求の産物で受け入れられたいと言う思いが根底にあるが、逆に誰にも受け入れたくない拒絶したいと言うニーズもあるのかと。

他者との関係に疲れた人や、関係性の中のプレッシャーから解放されたい人は一定数いてこう言うコンセプトの服を探しているような気がします。



この本についていくつか取り上げて見ましたが

また機会があればこう言う記事にまとめてみたいと思います。


最後までお読みいただきありがとうございます。
他にもファッションアパレルデザイン関係の記事を書いているのでよかったら 読んでいってください。










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