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第42話:視点

ある同僚に聞いた話であるが、北海道の人が静岡に来てまだ間もない頃、何でもゴキブリを見て「なんてつやのある美しい虫だ」と思い、その美しい虫をつかまえて虫籠に入れて飼っていたらしい。
北海道ではゴキブリがいないらしく、静岡に来て初めてゴキブリを見たとのこと。職員室の机の上に大事そうにそれを置いたところが、女生徒が早速見つけて絶叫したので、何故かとその理由を聞き、初めてこのゴキブリが「そういう虫」であることを知ったということだった。

ゴキブリを虫籠に入れて大事している光景は思い浮かべただけでも奇異であるし、我々からすれば正常な人のすることとは思えないのだが、しかしまた、見方によってはゴキブリが美しい虫として受け取られ得るということには、奇異でありながら、また新鮮な感じを受けもした。

話は変わるが、以前テレビを見ていたら、ある装置を使って男女の視線の違いを試すという実験をしていた。二人の若い女性の歩いている姿を、男と女、これもそれぞれ若い学生に見させ、その視点にどんな差が生じるかを試すという社会学の実験である。

結果はなかなか。男子学生の視線は女性の胸、脚、顔など性的なものに集中し、女子学生の視線は女性が身に付けているバッグ、靴、あるいはネックレスなどの装飾品に集中していた。
男にとっても女にとっても何か自分の心の奥を見透かされた、思わず苦笑いの出るような結果ではなかろうか。 

女性諸氏は「まあいやらしい」などと思うかもしれないが、装飾品に関心を集中させている女性諸氏も「なんと即物的だ」という男性諸氏の批判にあうことは必定で、どちらが良いとも悪いとも言い切れるものではない。
要はそれぞれの本性がこういう形で現わされて来る時、それが確かに自分の、それまでは自分では意識されていなかった問題として納得出来てしまったりするからおかしいのである。

僕もそんなことを考えもしなかったのだが、こうして改めて考えて見ると、例えば車に乗っている時にミニスカートの女性が街を歩いているとカミさんが隣で必ず
「私もミニスカートはこうかしら」
とつぶやくのだが、それは彼女が女として装飾品であるところのミニスカートを意識するというより、僕の視線が知らず知らずのうちにそちらに向いていることに対しての牽制ではなかろうかと思い当たったりもする。

「よせ!」と僕はとっさにカミさんがミニスカートをはいた時の姿を想像して言うのだが、もう一人ミニスカートの女性が通ったりすると、
「私、絶対にはこう」
と言い出し、更にもう一人通ったりもすれば、それが
私、絶対にはくわ
という決意に変わる。
こうなると「オレは絶対一緒に歩かないから」と脅すしか手はなくなる。
男性諸君は恋人と歩いている時に、間違っても他の女性に目は奪われてはならない。座右の銘にしてもらいたい、これは“金言”というやつである。


さて、視点はかように人によって異なる。一緒に街を歩くと、カミさんは何かの看板を見るのを趣味とし、空手部だった友人は電信柱を見る度にケリをいれていた。本を読むにも普通の人はその内容を読むのだが、国語学者であった大学の先生は意味に囚われず品詞を考えるために、本を逆さまにして読んでいた。
美しい自然を前にして詩人はそれを言葉にし、写真家はカメラのレンズを通して見、音楽家はオタマジャクシでそれを考え、うちのカミさんは「こんな良いところでおいしいものを食べてみたい」と考える。おもしろいと言えばおもしろい。

ただ、カミさんが子供を産んで思ったのだが、カミさんの腹が大きい時にはマタニティの女性ばかりが目につき、世の中にはこんなにたくさん妊婦がいたのかと思ったりしたのだが、子供が生まれてみるとマタニティーの女性は自分の視界から姿を消し、今度は小さい子を連れた家族連ればかりが目につくようにもなった。息子が小学生になると小学生ばかりが僕の視界に飛び込んで来た。今は、老人ばかりが目に入って来る。

視野は年令と共に広がるとよく言われるが、それは微妙で、こういう事情から考えると、むしろ年と共に視点が変化するに過ぎないと考えた方が良いのではないかと思ったりもする。
若い頃は、人の評価を気にしたり、社会の論理に染まる自分に嫌悪にしたり陥ったりしたが、歳をとってみると、世の中の大半は「どうでもいいこと」でできているような気もに見えたりもしてきた。
それはそれで大事な経験知かもしれないが、ただ、一方では不安と希望で未来を見る若い視点を喪失しただけのことかもしれない。


いつも自分の視点や視野は「自分」に囚われているのだという省察が常に必要なのであろう。


ある時、古美術の展示会で、自分の所蔵している刀剣や銃について、得々と説明する「お偉いさん」がいたが、それを聞いていた学芸員の資格を持つ同僚が「所詮、人殺しの道具だ」とぼそっと呟いた。
それが正解か否かは微妙な問題を孕むが、「そういう視点で視る」ことの意味を新鮮に感じた。

他者は自分の枠を超える新しい視点なのである。

ロシアのウクライナへの侵略が始まってしまいました。
(土竜のひとりごと:第42話)

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