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林大地『世界への信頼と希望、そして愛』を読んで

明けましておめでとうございます。今年もたくさん本を読み、感想を書き連ねていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

今回は、林大地『世界への信頼と希望、そして愛 アーレント『活動的生』から考える』(みすず書房、2023年)を読みました。

昨年の上半期に『人間の条件』の新訳(講談社学術文庫)を読み、下半期に『ハンナ・アーレント、三つの逃亡』(みすず書房)を読んで、アーレントの思想や生き方に感銘を受けたので、『世界への信頼と希望、そして愛』は2023年を締めくくるのにぴったりの本だと思い、手に取りました。

同書はアーレントの主著『活動的生』のテキストを精緻に読み解くことで、この本が書かれた目的や主題を明らかにすることを試みた著者の修士論文が基となっています。が、ご本人も認めている通り、論文とは思えないほど柔らかいエッセーのような文体でとても読みやすく、アーレントの考えていたことが著者の感性を通じて文字から伝わってくるような読書体験でした。


1.”世界に対して信頼と希望を抱いてもよいのだ”というメッセージ

同書の主張はごく簡単です。アーレントの『活動的生』は、たった一つのメッセージを私たちに伝えようとしているのではないか。すなわち、「それでもなお私たちは世界に対して信頼と希望を抱いてもよいのだ」と。

林によると、この「それでもなお」という部分がとても重要です。

世界を否定したくなるような出来事が、この世界には無数に存在する。しかしそうした出来事に直面してもなお、アーレントはこの世界を肯定しようとする。(中略)

アーレントは、世界を愛することがどれほど困難なものであるのかをよく知っている。「世界を愛することはなぜこれほど難しいのか?」-アーレントは自身に何度もこう問いかける。しかしアーレントは、世界を愛することを、それでも決してやめようとはしない。アーレントはその難しさを身に沁みて理解したうえで、「それでもなお」世界を愛そうとする。(中略)

この逆説性ゆえに、アーレントの「世界への愛」は、私たちの心にじかに訴えかける力強さを帯びることになる。

同書、p.6

『三つの逃亡』で描かれていたように、アーレントはナチスドイツに追われて故郷を喪失し、アメリカへと亡命する壮絶な人生をたどっています。

それでもなお、世界を愛そうとするアーレントの姿勢からは、理論によって他者を説き伏せようとするのではなく、生きた経験に基づいて真実を照らし出そうとする切実さを感じます。

おそらくアーレントは、このメッセージを、私たちに告げ知らせると同時に、自分にもひそかに言い聞かせていたのではないかと、誠に勝手ながら思う。あなたはこの世界に信頼と希望、そして愛を抱いてもよいのだ―こうしたメッセージを切に必要としているのは、それらを一度失いそうになった者たち、あるいは失った者たちであり、しかしまたそれらを失ったままではいられない者たちである。(中略)

全体主義の時代を生きたアーレントこそ、まさにこうしたメッセージを切に求める者だったのではないか。否定されるべきものとして世界が眼前に現れる状況にあって、それでもなお、世界を否定し去ることができなかったアーレントこそ、まさにこうしたメッセージを誰よりも必要としていたのではないか。

同書、p.256-257

個人的に思い出したのは、アニメ「エヴァンゲリオン」(ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q)のカヲル君のセリフです。

「希望は残っているよ、どんなときにもね」

絶望的な状況を前にしたとき、それでも世界を肯定しようとする。世界を愛することができる。ここに人間の美しさの本質があり、それを私たちに思い出させてくれる人こそ、20世紀を生きた哲学者アーレントなのだと思います。

2.「社会人」と労働賛美イデオロギー

同書は三部に分かれています。

  • 第一部 世界にたいしてなぜ信頼と希望を抱くことができるのか―物の持続性と人間の出生性

  • 第二部 世界への信頼と希望はいかにして破壊されてきたのか―資本主義と全体主義

  • 第三部 世界への信頼と希望をふたたび取り戻すには何をなすべきか―世界への気遣いと子どもへの気遣い

このなかで個人的に一番実感を伴って読んだのは、第二部「世界への信頼と希望はいかにして破壊されてきたのか―資本主義と全体主義」です。

アーレントによれば、古代において軽蔑の対象だった労働は、近代において賛美の対象となりました。「働かざる者、食うべからず」というわけです。

私は大学を卒業して会社員になりましたが、「社会人になる」という言葉にはずっと違和感がありました。人によって会社に入るか、起業するか、大学院に進学するか、はたまた留年・退学するか、選択肢の違いはあれど、皆同じ「社会」に属している人間です。大学卒業を境にして、非社会人/社会人という区別を設ける意味がわからないのです。

この点について、同書の註65で以下のように言及されていました。(ちなみに、読み応えのあるたくさんの註は同書の魅力の一つです。)

「社会人」というのは非常に奇妙な言葉である。またこれと関連して「社会に出る」というのもまた、非常に奇妙な表現である。私たちは生まれたときから、家族や学校、遊びや習い事、バイトやボランティアといったかたちで、つねにすでに他者とともに生活をしている。その意味において、私たちはすでに社会に出ており、すでに社会人であると言えるだろう。(中略)

「社会に出る」あるいは「社会人になる」という表現に従えば、私たちは会社に所属して賃金労働者として働かないかぎり、「社会」から排除されることになる。(中略)

ともあれ、以上の議論を踏まえれば、「社会に出る」あるいは「社会人になる」という表現には、労働への駆り立てというイデオロギー的な機能がそなわっていると言えるだろう。だからこそ、私たちは、こうした表現を安易に使うべきではないのである。

p.306-307

「社会人」という言葉は人々を労働へと駆り立てるイデオロギーとして機能している、というのは著者の慧眼だと思います。そして、このような労働中心主義が生まれる背景にあるもの、それがアーレントのいう「労働の公的領域への進出」なのですが、詳しくは同書をお読みいただければと思います。

3.「新しい始まりの存在」としての人間

第二部を読むと、私たちの世界がいかに資本主義と全体主義によって破壊されてきたのかを知って、どうしても暗い気持ちになってしまいますが、第三部「世界への信頼と希望をふたたび取り戻すには何をなすべきか」を読むと、明るく前向きな気持ちを取り戻すことができます。

個人的には、世界への気遣いが必要だという主張は、これまでの議論から予想されるものだった一方で、子どもへの気遣い、すなわち教育こそが重要だという主張は、最初はやや唐突な印象を受け、意外に感じました。

林は『活動的生』に加えて、『過去と未来の間』所収の「教育の危機」論文を参照しながら、教育を通じて子どもを気遣うことによって人間がふたたび新しいことを始めることができるようにする、そうすることで全体主義によって破壊されてきた人間の出生性を取り戻すという、アーレントが見出した道筋を照らし出します。

ここでの感動ポイントは、アーレントがかつての師ハイデガーとどのように対決したか、というところです。世界の内に投げ入れられて死を運命づけられた人間存在と、世界の内に導き入れられて始めることができる人間存在。アーレントがどのような思いを込めて人間存在について論じたのかを想像しながら読むと、残された文章から希望を受け取ることができます。

人間が単なる動物ではない「始まり」の存在であること、そして子どもの誕生とそれに裏打ちされた人間の出生性こそが奇蹟であり希望であることが、以下のように指摘されます。

ともあれ、私たちがもし生命にのみ生きるだけだとすれば、すなわち、たとえば獲物を求めて大地の上を這いずり回り、食っては寝ての単調な生活を繰り返すだけの毎日を送っているとすれば、そこに新しさが顕現する兆しは見えないだろう。(中略)
人間はそれにたいして、まったき世界内存在として、世界との密接な関わりを有している。私たちは人間事象の領域へと参入し、そこで言葉を交わしつつ行為することで、ひとつの新たな始まりとしてのその新しさを現実のものにすることができる。私たちは他者に向かって自分の新しさを能動的に示すことができる。

p.203

子どもがひとつの新たな始まりとしてこの世界に誕生すること、それは始まりの力を失いつつある大人たちにとっては、救済の約束に等しい―。それはなぜかと言えば、子どもたちは大人たちにはもうほとんど不可能なこと、すなわちその新しさでもって、この古びた世界を新たに生まれ変わらせることを可能にするからである。この世界をまったく新たな目で眺めることができるのは、子どもだけなのである。子どもの誕生はこの意味で、大人たちにとっての救い、すなわち希望となる。(中略)

子どもの誕生はその一つひとつが、救世主の誕生にも比すべき出来事なのである。この世界の至るところで子どもが間断なく誕生していること、奇蹟はここに存在する。

p.224-225

まとめ

同書の魅力について、ここでは書き尽くすことができなかったので、興味のある方はぜひ手に取って読んでいただければと思います。

私自身、昨年の秋から、読んだ本の感想をまとめていますが、こんな素人の文章、いったい誰が読むのだろう、何の意味があるのだろう、と思うことがあります。

しかし、それでも続けている理由があるとすれば、私がこの本を読んだ、そして私はこう思った、という痕跡を世界に残したいから、だと思います。

私にも、他者と言葉を交わし行為する力がそなわっていて、思考したことを書かれた物として残すことができる。そして、そんな私の痕跡を受け取った誰かがふたたび思考し、新しいことを始めるきっかけになるかもしれない。

そう考えると、正月に重い腰を上げてパソコンと向き合い、ブログを書いた甲斐も少しはあったかなと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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