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素直な楽しい

 ゆらゆら揺れながら少しずつ気づかないところで変わっている。それが何なのか気づき始める。酔ってていいんだ。まっさらな世界では酔っているなんてことはないんだから。遠くにいって近づくと島についていることがある。「小説があって詩があって本があっていいね」「人間が作ったんだって。」「何でここに変な記号がかいてあるの?」「そのままそれを自分の中でつくり始めればいいんだよ。」「外枠はいらないんだね。」「まっすぐ線が通っているでしょ。その線をじっと。」「観てるよ。簡単で複雑な線の工作だよ。」見知らぬ島にはいろんな個があって、形がなかった。


 人の言うことを聞くことって馬鹿馬鹿しいことだ。なんでずっとそんなことをしていたのだろう。教える教えられる関係っておかしなことだ。優劣は無かった。それは社会の考え方で自分の考え方じゃなかった。そして、自分はなかった。身体はあってそこは思考しているし歴史が積み重ねられてる。歴史っていうのは生まれてから会ってきた土地、先祖、あってきた人々、木々や建物や虫や人以外のすべてを含んだ他者。そこで起きた現象や有象無象に影響されなながら生きてる。いったん人の言うことを聞かないことに戻す。もっと簡単なことで学校でやっていることは無視していいということだ。
 学校に何か不満をもっている人がいたらやってみてほしいことがある。ここ数日で、、、なんか書こうとしていることと違う。説明するんじゃなくて詩みたいによく分からないけど言っていることがわかるような気がする。みたいな文章が書きたい。固い文章でも、分かりやすい文章でもなくてほぐしてほぐして軽くなって、軽くなって、命掛けの本気のことができるようなこと。学者もすごいっちゃすごいけど、あくまでも学問の範囲でやっているような遠いことな気がする。気がするばっかだ。どこからこれがきているのだろう。でも、それはいい流れが来ることなんだと思う。偉そうでもなくて子供みたいに発言したいような、、、分からなくなってくるな。なんかここで止めちゃいけない気がする。だ。とかいったん断定の表現をしてみるけどなんかおかしい。やっぱり人と会って話したり行動しないと、言葉に実感がないから空回りしてる。バイトをしたり自分のやりたいことの計画を立ててやっていこうかな。文章は書くけど投稿するとかそういうことじゃないのかも。生きないと、日常に戻って現実に立つ必要がある。人に命令するとか、自分の言うことを聞くとかでもない。人を観るより自分のおかしいところがあった。人の文章を読んで触発されるのはいいんだけど、自分の子のようにしちゃってるからずれてた。人のこと気にしてないで夢中になろう。人を助けるし執着もいらない。軽くてまっさらな線に数本の線を引く。気前のいい。清々しくて気前のいい感じに。教わりたい人がいるからその人の元に声をかけてみたりしてみる。探す。偉そうになったら終わりだ。でも、学校でやっていることを空想のような感じでどうでもいいことにすると楽になったよ。試してみてね。あともう一つは自分でやっていくと腹を括ると楽しくなっていくよ。自分の好きなものは自分しか知らないでしょ。自分の足で立って歩くのがやっぱいい。誰かと歩幅を合わせて歩くと歩きにくい。家から出て自分で自分の稼いだお金でどこかに住んでやりたいことやってた方が重くないしそのために生活の総量を計算したり自分で調べてやれば自分の思い通りになるんだと坂口恭平の本や動画などをみていてそうすればいいんだとしれてよかった。これからは実行していく。単純な計算から始めて動いた方が楽しいのに怖気づいてた。本末転倒だった。やってみる。評価を気にするほど偉くならなくていい。日々を幸せに生きている人がいたら本物だと思う。その幸せに他者がいないと成り立たなかったらちがうかもしれない。他者を拒絶しているわけじゃない。お金がいらなくなって家から服から食べ物から生き方からすべて作っている人がいたら本物だと思う。そして余ってたら人に分け与えるぐらいの気前のよさ。いつ死んでもいいぐらいの満足感がある人はすごすぎる人だと思う。街を歩いていても電車の中も学校も本当に幸せな人なんていなかった。坂口恭平を何回も出しているが本当に幸せな人だと思う。本人もいっているけど、その声を聴いたら分かった。自分はもともと観る目はあるから、だれが広がりのある人かどうかでわかる。本物だと思う。だから今は坂口恭平を深堀していろんなやりたいこともやっていこうと思う。楽しくなってる。


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