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「正義感」と「被害者感情」が発動する構造について

先日、小学生の息子が宿題で人権作文を書いた。400字詰めの原稿用紙2枚分の内容を100字以内でまとめるとこんな感じだ。

<ぼくや、ぼくみたいな行動をする人はクラスメイトからよく注意をされる。きっとみんな正義感から注意をしているんだと思う。でも、いつも悪者にされるとぼくたちだって傷つくことがある。正義ってなんだ>

字数稼ぎの目的もあるのだろうが、文中に「せいぎってなんだ」と雑な字で5回続けて書いてあった。

親から見ると、息子は活発だ。長い間じっとしていることが得意ではない。

「静かにして」「ちゃんと“きをつけ”をして」「教科書はそのページじゃない」「筆箱を出して」「筆箱の並べ方はこうだよ」などと、クラスメイトに細かく注意をする子たちとされる子たちがいて、どうやら彼は注意をされるほうらしい。

息子は、冒頭の作文をクラスメイトからよく注意をされている親友のことのことも思い浮かべて書いたという。低学年のころからよくうちに遊びに来ていたわんぱくな友達は、2年、3年と学年が上がるにつれてキラキラとした目の光が少しずつ弱まっていき、4年の2学期から学校に来られなくなった。

教育現場では今の親世代が子どもだった頃よりも”多様性”という概念は広く認知されている。しかし、”ルールを逸脱する子”への眼差しはいっそう厳しくなっているのかもしれない。

■誰もが「被害者感情」を抱えているのだとしたら…

ここからは、私の仮説だが、子どもの世界だけでなく、世の中の人間関係のトラブルの多くは正義感と被害者感情から生じているような気がする。

冒頭のケースであれば、注意をしている子は、自分はルールを守っているのに、ルールを守らない人を見て不快な気持ちにさせられる被害者となり、それゆえに正義感が刺激されているのかもしれない。

一方、注意されたほうは、“悪いことをする子”“ルールを守れない子”というレッテルを貼られたことで、被害者意識を募らせている。

さらに、それぞれの子が身近な親や友達に話すときには、どうしてもバイアスがかかった伝え方になるので、共感した親に被害者意識が伝染することがあるだろう。

結果、その場には被害者と加害者が次から次へとうまれていく。

このような悪循環がどこまで続くのか考えると、暗澹たる気持ちになるし、大人の社会でも既視感がある構図だ。いや、実際、数えきれないほど見すぎて目をそらしたくなるほどだ。

被害者意識を刺激され、それゆえに想像力の欠如した正義感を発動し合って、傷つけあう構図を。

■「個性を大切に」「個の力」と言う言葉の空虚さ

「個性を大切に」という言葉は近代の教育現場でよく聞かれる言葉でもある。でも、なんのことはない、個性なんて1人1人が生まれたときから備わっている。私には3人の子どもがいるが、同じ家庭で同じものを食べて育っていても1人1人の気質も関心も集中力も全く異なる。

実際のところは、日本の“集団の空気””組織の雰囲気”こそ個性が乏しいのではないか

集団と個人との紋切型の関係が学校、企業組織、地域組織に数多く存在しているのではないか。

その組織にはどうしてその決まりがあって、どうして守らなければならないのか。ただ単に「立場が上の人の言うことに従う」というのではく、なぜそのような行動が必要なのか。そこに対話の余地はあるのか。必要に応じて子どもたち(または立場が下の人)が前例やルールを改善する主体性を持つことはできるのか。

「ルールだから」「上の者がそう言っているから」「前からそういうものだから」という硬直化した思考を越え、ルールの受け止め方に違いがあることをある程度受け入れながら、そうした”面倒なこと”を話し合ったり思考する余地が教育現場にあるといいな、と思う。

いや、教育現場だけでない。さまざまな組織に今、必要な要素だと思う。

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