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中途半端な僕たちは

私は常に中途半端です。物事を極めるところまで続けることが出来ません。やりかけのところでやめてしまった趣味がけっこうあります。飽きっぽいのではと母には言われますが、自分ではそう思っていません。

世の中には器用貧乏という便利な言葉があります。私は全然器用でも何でもないので、この言葉に当てはまりません。できることも人並み以上にできるわけでもないです。それでも世の中には認めてくれる優しい方もいます。

そういう方たちは「スピカちゃんはいてくれるだけでいいんだよ」など、心の底から暖まるような言葉をくれたりします。これは実際に私がnoteを始めたばかりにフォロワーさんに掛けて頂いた言葉です。


100%でなくてもいいという安心感

その時期の私はエッセイが何かもよくわかっていないのに、#エッセイをとりあえず使っているような状態でした。全くと言っていいほど書き方がわかっていませんでした。今もそんなにできているわけではないのが悲しいところですが。

それなのにいろんな方が「とりあえずnote始めてみよう」の私を見に来てくれました。そしてスキを押して下さったりと反応を下さって応援してくれました。本当に嬉しく、だからこそ今まで続けてくることが出来ました。ありがとうございます。

なんだか、中途半端にしかできないことを褒めてもらえるっていうのは「ありのままの自分を受け入れてもらえている」という状態に近いような気もします。考え方によっては心地よく思えるようになるのかもしれません。

例えばそれは「カレーできたけどちょっと辛め」など、そういう日常のちょっとした失敗を許してもらえるのと似ています。本人からしたらある程度しかできていないのに「これだけできればすごいよ」と認めてもらえるような感覚。

これは店に出したら微妙なレベルだけど、家庭用にするなら十分においしいよと褒められるということの方が近いでしょうか。自分にとってはまだまだだけど、喜んで食べてくれる人もいるということ。


続けていくことが一番すごい

私はもっと上を知っている、もっとできている人を知っている。そういう気持ち、コンプレックスが強くて見上げることを諦めてきたのかもしれません。本当は見上げるのをやめても、続けることはやめなくてもいいのです。そのはずなのに、いつもぱっと手を放してしまいます。

そんなことをぼんやり悩んでいる時期に、親友に話してみたら「それは向上心が強いからでしょ?」といともたやすく論破されてしまいました。さすが。私のことをよく見ていらっしゃる。私はあまり実感がないので「親友が言うならそうなのかもしれない」というとらえ方です。

いつも私は中途半端でしかない成果を親友に報告しては、一緒に喜んでもらってきました。けれども、私は本当はずっと何かを続けていられる親友の方がずっとすごいんだということを知っています。

傷ついてやめたくなったりするときもある中、それでも「続ける」という選択肢を選び続けることはとてもすごいことなのです。仕事でも、家事でも、育児でも、介護でも。いろんなことで言えると思います。


心が折れそうなときに目にしたニュース

実は最近もnoteでの活動に悩み、一時期はやめてしまおうかと思っていました。いつも本気を出した記事は書けないし、うまく書けなくてすみませんと思ってばかりいました。そういう自分も嫌いになりそうでした。

昨日「あの会話がきっかけで」のコンテストで、フォロワーさんが受賞したということを知りました。そして作品を読み返させて頂いたのですが、とても勇気づけられました。実は私も応募しました。それでも自分のことのように嬉しかったのです。

そして私が文章を書くのを長く続けてこれている理由は親友の存在が大きいと気付いたのです。今までやめてきてしまった趣味は、大体が仲間がいなくなったから続けることが出来なくなっていたのです。

けれども今回、フォロワーさんの受賞を心から喜んでいる自分がいて「まだ私には居場所がある」と思うことができました。辛いからやめてしまおうかと思うだけで、本心ではそうは感じていなかったようです。そのことに「良かった」と思う自分がいました。


その一方で「続ける理由は変わってしまうかもしれない」とシビアに見ている自分もいます。どちらに転ぶか、もしくはどちらも選ばないか――今はどうなるかわかりません。

データだけでもいろいろ見えてくる状況があります。深く考えれば考えるだけ、改善した方がいい部分も見えてくるでしょう。それを突き詰めるのかどうするのか。少し考えてみようと思います。


ここまで読んで下さってありがとうございました。



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