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自害を選んだ近代文豪とあなたへ

1. 自害を選んだ近代文豪たちへ

 近代の文豪と言えば、「自殺」というイメージがある。芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成。それから、ヘミングウェイも。

 僕がこれから書こうと思っている文章は、批評などではない。そもそも僕が純文学を読むようになったのはつい最近の話だから、まだ彼らの作品をたくさん読んでいるわけではない。でも、彼らの作品に助けられたことや、受け取ったものは少なからずある。僕がやりたいことは、僕が文学を通して得たものの一つを言語化し蓄積しておくことである。

 僕は僕自身のためにこの文章を書く。しかしそれが、僕のあずかり知らないこの世界のどこかで、僕の自己満足の範疇をひょこっと抜け出して、次の誰かに届けば嬉しいと思う。

 文系なんて要らないという世論すら立ち上がってくるこの世の中で、僕のことを誰よりも救ってくれたのは、医学でも工学でもなく、文学だった。同様の経験をした人は世界中にたくさんいるだろうと思う。人間は、病気でも怪我でも飢えでも死ぬが、心の病でもやはり死んでしまうのだ。

 そう思えば、彼ら文豪は明らかに生きる価値のある人間だったのだ。彼らの文章は多くの人を楽しませ、共感させ、明日を生きる気力を与えた。彼らを必要としていた人間はたくさんいたはずだ。
 普通「自殺」というと、「自分にはもう生きる価値がない」と思い悩んでするイメージがある。彼らはそう思っていたのだろうか。

 人の悩みを、勝手に推測して文章にしてしまうことほど傲慢なことはない。しかも僕は彼らの死の詳細について、何も知らない。僕が知っているのは、彼らのほんのわずかの文章だけである。だからこれから書くことは、何一つ信頼しないでもらいたい。一つの仮説にすぎない。しかしその仮説がまた、僕に生きる気力を与え、現段階での一つの指針になっていることも一つの事実なのである。

 結論を書く前に、少し回り道をしたい。


2. 価値を判断する主体は誰か

 僕が彼らの文章を読んでいて度々感じることは、恐ろしいほどの心の繊細さと純粋さである。そしてその繊細さと純粋さは、世の中の悩む人の心を打つ。

 なぜか。世界とは、総体で見れば、繊細でもなければ純粋でもないからだ。もちろん世界から部分だけを取り出してみれば、繊細で純粋な優しい場所があるかもしれない。でも、そういう繊細で純粋な傷つきやすい心を持った人間が、世界のそういった繊細で純粋な優しい場所に配属されるとは限らない。それは、生まれてきた場所や、生まれ持った能力によってある程度制限されてしまう。まるで「くじ引き」のように、それは自分とは全く別の場所で決定される。

 もちろん努力によってなんとかできるものもあるだろう。だから「ある程度」にはなるのだが、やはり世界には限界というものがある。例えば、どれだけ努力をしても自分には合格できない試験があって、どれだけ努力をしても自分のことを好きにはなってくれない人がいて、どれだけ努力をしても手に入らない生活がある。

 そういう時、繊細で純粋な心を持った人は、世界の理不尽を前に屈服してしまう。近代の文豪たちのテキストからは、そうして世界の理不尽に打ち砕かれたにも関わらず、その世界の理不尽を受け入れ、適応していくことができない、彼らの繊細で純粋な心の様相が伝わってくる気がする。

 ここで話を本筋に戻そう。彼らは、自分に生きる価値が無いと思ったわけではないのではないか。彼らは、この世界が彼らにとって生きる価値に値しない、と思い悩んだのではないだろうか。彼らの心は、この世界よりも(こういう言い方が許されるならば)、高潔だったのではないだろうか。

 自分に生きる価値があるかどうかで思い悩む自分にとって、この仮説は逆説的だった。僕の価値を世界が評価するのではない。世界の価値を僕が評価するのだ。彼らを苦しめたこの考えは、反対に僕の肩の力を抜かせる。世間にどれだけ批判され、笑われようが、常に主導権は僕の側にあるのだ。どういう考えが正しいとかではなくて、そう考えた方が楽な場合に備えて、考え方のレパートリーの一つとして持っておくと良い、ということだ。


3. 自害を選ぶあなたへ

 一方で、そうだとすれば、「死にたい」と思う人に対して、「生きろ」と言うのは無責任になり得る場合があるのではないだろうか(そもそもこうした考えは、近代文豪たちを自害に追いやったのだ)。この辺は、一般化していいことではない。だから誤解しないでもらいたい。当然、その人の価値を認めてあげる、つまり「世界はあなたを必要としている」と伝えることも重要だ。僕は単に、そこで分岐して生じた「生きろ」と言うことが当人にとって無責任に感じられてしまうパターンについて、さしあたり言及しようと思っているのである。 

 そういう人たちを前に、僕は、僕という個人としては、成す術を持たない。僕が彼ら彼女らに対して「僕にはあなたが必要なのだ」と言っても意味をなさないからだ。彼ら彼女らは、僕による肯定を必要としているわけではない。僕が本当に彼ら彼女らを必要としていても、それは意味をなさない。もはや彼ら彼女らは世界に見切りをつけており、「死」を別世界へ移住できる可能性に対する通行料として見ていて、それが高いか安いか、つまり「死」の苦しみや現世への思い残しは、別世界への交通費として高いか安いかを考えているのである。

 僕が本当に彼ら彼女らに生きていて欲しいと願っている場合、僕が本当にやらなくてはいけないことは、この世界がまだ捨てたものじゃないと伝えること、それから、この世の中をその人にとっても生きる価値のある素晴らしいものにするために僅かでも貢献することなのではないだろうか。もちろん、自分自身のためにも。

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