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白いイルカ

正確にはそれがいつなのか覚えていないが、僕がまだ幼稚園児だった頃の記憶で、今でもふとした瞬間に思い出す光景がある。

僕が生まれた時、母方の祖父は既に鬼籍に入っていて、祖母は一人で新潟県の田舎に住んでいた。塩の匂いが漂う港町だった。僕は祖母が大好きだったから、母親と一緒に帰省するのがいつも楽しみだった。

その光景の中で、祖母は僕にこんな話をする。

「大きくなったら、そのうち大きな波がやってくるからね。人生に一度きりの波だよ。それがやってきたら、『これがおばあちゃんの言っていた波のことか』って絶対わかるはずだから、その波を逃さないでしっかり捉まえなさい。そうしたら——」

そこで祖母は一度話を切って少し上を向いてから、僕に満面の笑みを見せて、こう続けた。

「——おばあちゃんみたいに幸せになれるよ。」

その細くなった目はどこか遠くを見ているように感じられた。でも心から幸せそうな優しい笑顔だった。

赤道にほど近い島国。僕は今そこにいる。美しいビーチを持つ島々からなるキリスト教信仰の小さな国だ。こじんまりしているけれど美しい教会もいくつかある。でも僕はビーチを目当てにして来たわけではないし、キリスト教徒なわけでもなかった。

この国にはある一つの伝説が存在する。

白いイルカだ。

それはベルーガとも違う。しっかり背ビレもある普通のイルカの姿形で、色だけが真っ白だと言う。そしてそれを見たものには永遠の幸福が訪れると言う。

しかしそれは伝説と言われるだけあって、目撃情報がない事はないが、どれも信憑性に欠けていた。

僕はそんな伝説に若干心を惹かれつつ、趣味のスキューバダイビングをするためにこの国に来た。

事件はもう二週間ほど前に起きた。

その日僕はナイトダイビングをするために、一緒に来た友人たちと、それから同じダイビングショップを利用している他の客たちと共に、日が暮れる直前に小型船に乗り込み、ダイブスポットへ向かった。

一時間経った頃、あたりはすっかり暗くなっていた。

悲劇はそこから始まった。突然ポツポツと雨が降り出し、あっという間に大雨になった。風も強まり、波が高くなった。それは誰も予想していなかったことだった。天気に関してはダイビングショップのスタッフがいつもきちんと把握していたが、その日は雨が降るとはまさか誰も思っていなかった。雲ひとつ無い快晴だったし、そもそも今は南国特有の乾期で雨はほとんど降らないはずだった。

雨はますます強まり、海は荒れ狂った。当然ダイビングは中止して引き返すことになったが、もう手遅れだった。巨大な波が、僕たちの乗る船を飲み込み、僕らはみんな海へ投げ出された。僕は暗い海の表面で必死にあがき、同じように海に投げ出されていた酸素タンクとダイビング道具を掴むと、即座にBCDに空気を入れ、それを浮き輪がわりにしてつかまった。他の人のことを気にしている余裕はなかった。

次第に遠のいていく意識の中で、僕は祖母の言葉を思い出していた。これが僕の人生最大の波なのだろうか。これが祖母の言いたかったことなのだろうか、と。

目が覚めると、視界にはまばゆいばかりの青空が広がっていた。一夜明けたらしかった。顕微鏡の焦点を合わせ直すように、少しずつ自分の置かれた状況を把握していった。

そこは百メートルほどの浜辺があるごく小さな無人島だった。浜には木の枝や海藻などが打ち上げられていて、僕のかたわらにはダイビング道具が一式と、ビスケットの入った缶が一つ横たわっていた。その缶は船に積んであったものだった。島の中央には何本か高いヤシの木が生えていて、その付近に少しばかり低い茂みもあるが、他には特に何もなかった。

最初の数時間は助けを呼ぼうとしたが、水色の水平線をいつまで見つめていても、船の影は現れない。頭上を飛行機が通り過ぎていくこともなかった。

そうして気づけば少しずつ日が傾いていた。僕はやり場の無い恐怖にかられた。でもどうしようもなかった。

茂みからいくつか木材を拾って来て、火を起こすことを試みた。そんな原始的な火起こしは経験したことがない。ただ自分の想像に任せて、ひたすら木々をこすりつけるしかなかった。手が痛かった。二時間くらいして、奇跡的に火種が生じた。急いで薪になりそうな木材を追加で拾い集めて火にくべた。

その夜、僕は世界に自分だけが取り残されたような寂しさに襲われながら、眠りについた。南国の星空は残酷なほど綺麗に瞬いていた。

次の日、猛烈な喉の乾きで起床した。島を散策すると、ヤシの実が落ちているのを見つけた。石なんてほとんど落ちていなかったから、地面や木の幹に打ちつけることでその堅い皮に亀裂を入れようとした。ほぼ半日かかって、実を割ることができた。普段は美味しいと思えなかったヤシの実ジュースは信じられないほど美味かった。細胞の隅々まで水分が行き届くのを感じ取ることができた。

そうしてそれから僕はビスケットとヤシの実を頼りに、二週間ものあいだ救助を待った。

しかし、救助はいつまで経ってもやって来なかった。

ある日の昼すぎ、最後のビスケットを食べきった。もう僕は精神がかなり参っていて、それが何を意味しているのかさえ、よくわからなくなっていた。

その時だった。沖合の方で水飛沫があがった。

そして僕は見た。真っ白なイルカの姿を。反射的に僕は感じた。

「波が来た」

僕は浜に打ち上げられたままだったダイビングスーツを着て、酸素タンクのついたBCDを背負い、水中マスクと黄色いフィンを手に持って、波打ち際に向かった。

膝が浸かるくらいの浅瀬まで歩いて行って、そこで裸足のままフィンを履いた。

方向や距離の掴みづらい海上にも関わらず、水飛沫のあがった場所はくっきりと脳裏に焼き付いている。僕はマスクをつけて海に入ると、沖に向かってひたすら泳いだ。

浅瀬ではサンゴや小さな魚たちが見えたが、沖に行くにつれ次第に海底は見えなくなっていった。

水飛沫の上がった場所まで来ると、レギュレーターを口にくわえ、一度息を強く吐いて中の水を抜いてから、正常に酸素が供給されることを確認し、僕はゆっくりと海の中へ潜っていった。

そこには魚も何もいなかった。透明度は十五メートルほどで悪くなかったが、それでもただただ海が広がっているだけだった。海底は全く見えない。

僕はまたゆっくりと深度を上げた。ダイブコンピューターは無かったから、そこが水深何メートルなのか、あと何分水の中にいられるのかわからなかった。

僕はただじっと待った。

青暗い静寂の中で僕は一人精神を集中させた。

マスクの中で目を閉じ、耳を澄ませた。

どれほどの時間が経過したのだろうか。

微かに、海を揺らす低い音が聞こえた。僕は目を開いた。

海中、遠くの方にぼんやりと影が見えた。それは速いスピードでこっちに近づいて来ていた。「伝説の白イルカだ」と僕は思った。

百合の花びらのように高潔で神秘的な白色のイルカが姿を現した。

そして、まだまだこちらに近づいて来る。数メートル手前まで来た時、僕はそのイルカと目が合った気がした。その透き通った目にはなぜか哀愁がこもっているように見えた。そしてそれは僕の中の何かを強く揺さぶった。それはほんの一瞬の出来事のはずだったが、僕には時間が止まって感じられた。

僕の側をイルカが通る。僕はその身体を捉えようと手を伸ばした。

背びれを掴んだ。

やった、と思ったのも束の間、イルカの身体は僕の手をすり抜けて行った。僕は焦ってフィンで水を強く蹴り、ぎりぎりまで手を伸ばした。しかし当然追いつくはずはなかった。

僕は海の闇に消えていくその白いイルカの優美な曲線をただただ呆然と見つめることしかできなかった。この世のものとは思えないほど美しい生き物だった。

海中に咲いた小さな白色はついに消えてなくなった。

僕は浜辺で焚き火をしながら、月明かりに照らされた夜の海を見つめた。

サーっという波の音と時折パチパチ鳴る焚き火の音があたりに優しく響き渡った。

僕は真っ暗な海中を泳ぐ白いイルカを想像した。それからあの透き通った目を思い出した。

「おばあちゃん。俺、捉まえられなかったのかもしれない。」と小さく呟いた。

だって、それはイルカなんだ。生き物なんだよ。僕が捉まえたいかどうかだけじゃない。イルカが僕を捉まえたいかどうかってことも大事なんだ。僕には僕の都合があって、イルカにはイルカの都合があるんだ。

いつの間にか両目からは涙が溢れ出ていた。無人島に来てから初めての涙だった。あるいはこんな風に心から涙したのは子供の時以来かもしれない。僕は僕の弱さをひしひしと感じた。イルカの都合と思うことで、自分の失敗を慰めようとしている自分の存在に気づいていないわけはなかった。

僕はイルカを捉まえられなかったし、捉まえてあげられなかったのだ。

誰にも憚ることなく、僕は声を上げて泣いた。

ひとしきり泣いた後で、夜空に浮かぶ真っ白な満月を見上げた。

僕はこの小さな無人島で誰に知られることもなくひっそりとこの世を退場しなければいけないのかもしれない。

でももしそうなるなら、そしてもし神様が本当にいるなら、僕の願いを聞いて欲しい。死んだら天国や地獄じゃなくて、この国の住民としてもう一度生まれ変わらせて欲しい。

だって、僕はもう一度あの白いイルカを追いかけたいから。



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