私の最愛海外文学10選
こういう印象深いタグがXで流行っていると、わたしがフォローしている方の投稿に書かれていました。
Noteに投稿された、愛してやまない文学作品を挙げてられている方のリストを見て、
と思わずため息をつきました。
最近はAIを学ぶのに忙しくて長編小説なんて読めやしないのです。
昔は本当にたくさんの小説を読みました。
小説が自分の人格形成に与えてくれた影響は計り知れないないのですが、たくさん読んだのは、人生経験の足りなかった若い自分が知識と理論において自己武装するためでした。
生き方の、人生の指南書として。
Book Smart なわたしの人生経験のたくさんの部分は読書によって培われたのです。
言葉の芸術として文章の美しさに感動したりすることはあまりなかったことは残念なことでしたが。
詩人や作家の言葉の美しさに開眼したのはずっと後のこと。
あの頃は心に余裕はなくて、長い物語の中の主人公たちの生き方を参考にどう生きてゆけばいいのかの模範を探していました。
今日はそういう過去に懐かしい読んだ海外文学のことを振り返ってみました。
ああLogophileはこんな本を読んできたのか、なんて共感してくれたり、自分もこの本を読んでみたいと思っていただけると幸いです。
あなたの人生の糧になるかも知れない読んで損はない小説ばかりです。
詩集もたくさん読みましたが、ここでは小説にのみ作品を限定します。
(1) 聖書 (古代イスラエル)
信仰者にとって神聖不可侵の絶対的な宗教書を「文学」として取りあげることに眉を顰められる方もいらっしゃるかもしれませんが、わたしにとって、聖書は事実の記述や歴史書ではなく、寓話のように真実を書き記した人生の書です。
小説とは事実を活写するノン・フィクションではなく、体験したり見聞きした経験の本質を抽出して、作者の言葉で書き上げた物語だと定義できます。
たとえ自伝であってもあくまでフィクション。
小説とはドイツの文豪ゲーテが自伝のタイトルに採用したように「詩と真実」なのです。
人生経験や事実が詩の言葉を用いてて語られる作者の色眼鏡を通じて映し出した真実の投影。
その意味で、聖書以上に最高の小説はない。
十字架上で処刑されたイエスの復活が物理的な事実であるかどうかは自分にはどうでもいい。
でも救世主と信じられていた彼が人々の心の中に復活したと信じられたことは事実であり、そうした事実を生み出した彼の言葉の力に畏れ入ります。
イエスの生きた軌跡がのちの人々の心の支えとなり、幾多の殉教者さえも生み出したという事実から生まれたイエスの力強い言葉には人生の真理が間違いなく込められているからです。
友のために死することほどの愛はない
与えることは受け取ることよりも幸いである
一粒の麦が地に落ちて死ねば、より多くの身を結ぶべし
汝自身を愛するように他人を愛しなさい
隣人を愛せよ
罪を犯したことのないものが最初に石を投げよ
天国に富を蓄えよ
心の貧しいものは幸いなり
幼子のような心を持たないと天国には入れない
天の父があなたを許したように、許し合いなさい
愛は寛容で親切で妬みはしない
絶えず感謝し続けなさい
何度も何度も読んだので、聖書の印象的な言葉がすぐに浮かんでくる。
ここでは聖書の原典によらないで、自分が覚えていることを自分の言葉で書き出しました。ご了承下さい。
聖書の精神は、自分自身を愛せないと誰かを幸せにできないという基本思想に基づいています。
利己的な愛ではなく、幸せな人の溢れる愛。
幸せな人は自然のままで誰に対しても寛容で親切ですよね。
いつだって朗らかで笑顔。
幸せは他人まで溢れ出るものなのです。
逆に自分を幸せだと思えない人はなかなか心から誰かのために何かをしてやれない。
幸せは造物主に愛されている許されているということに気づくことだと聖書は絶えず語る。
愛されている許されていることに感謝すると幸せになれる。
単純な思想だけれども、誰もが実践できない深い思想なのです。
まずは自分が救われて初めて他人を幸せにできるという考え方です。
世界文学最高峰と呼ばれるドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」もトルストイの「アンナ・カレーニナ」もインスピレーションは聖書由来。
「人間が不幸なのは自分がどれほどに幸福であるかを知らないからだ」とドストエフスキーは語りました。
名言至言なのですが、もちろん聖書の言葉のパラフレーズなのです。
信仰者でなくても感動するバッハの「マタイ受難曲」はイエスの自己犠牲の物語。
聖書は、自分にとっても汲めども尽きぬインスピレーションの源泉なのです。
でも聖書を読み解くと、歴史的キリスト教徒たちの異教徒への不寛容がいかに聖書の本来の在り方に反しているのかが分かります。
キリスト教史は偽善の歴史でもあるのです。
(2)ミヒャエル・エンデ「鏡の中の鏡」(ドイツ)
シュールレアリスト画家の父エドガーが遺した絵画からインスピレーションを受けて書かれた短編集。
まるで藤子不二雄FのSF短編を読んでいるようなシュールな三十の幻想物語が迷宮のように複雑に入り組んで連なる不思議な世界。
最後の物語はバッハのゴールドベルク変奏曲のように最初の挿話に回帰するのです。
出口のない現代社会のカリカチュアであり、救いなき世界のためのレクイエムのような本。
エンデの生きた東西冷戦時代の社会的不安は第三次世界大戦を憂う我々の時代と同じ不安を秘めていました。
核戦争で世界が終わる危機を憂いでいた危機の時代でした
児童文学「果てしない物語」では語られなかった、大人のためのもう一つの果てしない物語。
(3) カズオ・イシグロ「クララとお日様」(イギリス)
ノーベル賞作家による人工知能物語。
先日語った浦沢直樹の漫画「プルートゥ」の近未来よりも、こちらの方がより実現しそうなロボットたちと人間の共生世界。
イシグロの書く物語は語り手の視点から語られる世界がユニークで、世界とは観る人が変わればこれほどに世界が変わるということを思い知らされます。
(4)ヴォルフガング・フォン・ ゲーテ「ファウスト」(ドイツ)
ドイツ語を学んだわたしはゲーテの詩句を愛してやまないのだけれども、ファウストはやはりゲーテの最高傑作だと何度読んでも感嘆します。
若い頃はクラシック音楽の世界で幾度となく音化されたグレートヒェンの悲劇に感化されたけれども、いまでは人間を達観している悪魔メフィストの視点に興味がある。
読むたびに新たな何かを見つけられる永遠の人生の書ですね。
ファウストの別の魅力は十九世紀文学で最も音楽世界に影響を与えた文芸作品として数多くの二次創作作品があること。
シューマン、ベルリオーズ、マーラーなど錚々たる大作曲家が作曲を手掛けていますが、白眉はとても可憐なグレートヒェンの歌うバラード「トゥーレの王」。
この有名で感動的な愛の詩にはリストやグノーなどのものが有名。
わたしはシューベルト作曲が最も好きです。
マリア・カラスの歌うグノーのオペラアリア版もどうぞ。
次はムソルグスキーの悪魔メフィストの歌う風刺歌である「ノミの歌」。
メフィストにはヴェルディ晩年の台本作家としても名高いボーイトの手による悪魔メフィスト視点のファウスト物語を歌劇化した「メフィストーフィレ」もあります。
日本ではもちろん昭和の手塚治虫がファウストを愛読していて、生涯に三度も漫画化しています。ネオファウストには上記のトゥーレの王もノミの歌も含まれています。
(5) ウィリアム・シェイクスピア「ヘンリー四世」(イギリス)
シェイクスピアの古い英語で読めるようになることを目標にして英語を学び続けてきました。
ほとんどのシェイクスピア作品を読んだのだけれども、一冊だけ選ぶならば、ハリー王子と不良老人フォルスタッフの破天荒な友情の変転と非情な別れが描かれたこの作品です。
「マクベス」や「ハムレット」や「十二夜」よりも。
たくさん笑って愉快な時を一緒に過ごした二人。
でも若い王子は王位を継ぐために人生に責任を持たなくてはならなくなったとき、人生は冗談でしかないと嘯くフォルスタッフを犯罪者と切り捨てるのです。
殺しても死にそうもなかった不羈磊落のフォルスタッフは王子に見捨てられて、別人のように変わり果てて死んでゆく。
人生の目的は快楽であるとして無法者として生きてきたフォルスタッフが友愛を失ったことで生きる力を失ってしまう悲劇は、リア王の愚かさとは別の破局であり、そしてまたこうでなくてはならないのが人生。
シェイクスピアは本当に人生を知り尽くした大作家なのだと、この結末に感嘆せずにはいられない。
(6) フョードル・ドストエフスキー「白痴」(ロシア)
シベリア流刑中にキリスト者に改心したドストエフスキーはキリストこそが世界で最も美しい人なのだと信じていました。
ですので美しい人であるキリストを、現代ロシア、つまり19世紀後半の帝政ロシアに降臨させるとどうなるかの実験を小説において試みることがドストエフスキー最晩年の課題だったのです。
キリストの現代社会への降臨は後年の「カラマーゾフの兄弟」でも語られますが、この小説のキリストの分身のムイシュキン公爵はあまりに世俗の知識に疎いので「白痴」と呼ばれる有様です。
実のところ、ムイシュキン侯爵の無私と博愛は本当に素晴らしいのだけれども、拝金主義がはびこり、性風俗は乱れて社会的倫理が失われていた当時のロシアでは彼はあまりに無力でした。
ムイシュキン侯爵の無垢を通じて見えてくる現実世界はあまりにもおぞましいものでした。
美しい心ばかりでは生きてゆけない。
でも美しい精神を持つ彼の生き方と言葉に心動かされる人たちもいた。
そこにこの長大な小説の価値がある。
わたしとしてはドストエフスキー作品の最高傑作として、「死の家の記録」や「悪霊」や「カラマーゾフ」よりも、本作を選びます。
(7) アントン・チェーホフ「かもめ」(ロシア)
学生時代、引きこもりのような生活をしていた頃、チェーホフの四大劇に登場する不完全人間たちにひどく共感しました。
生涯をかけて経営していた農園を失い人生を棒に振るヴァーニャ叔父さんに彼に寄り添う容姿の冴えない姪のソーニャ、桜の園や三人姉妹の没落貴族たちに新時代の教養なき成金ロパーヒン、そして訳のわからない未来世界を戯曲化しようとして失敗するトレープレフに捨てられる女優志望の少女ニーナ。
新潮文庫の訳者のあとがきには、こんな人生を送っている人物を学んでも人生の成功には何の役にも立たないと書かれていました。
でもあの頃の希望の見えない生活を送っていたわたしには彼らこそが同格の仲間であり、自分自身の理解者に思えました。
作家と駆け落ちして、未婚のまま子を身籠り、やがては子を死なせてしまったニーナは、かつての恋人トレープレフに、私は湖を離れたカモメ、自分には何もできやしない、でもそれでも生きてゆくと言い残して懐かしい土地を去ってゆく。
ニーナに去られたトレープレフはその後ピストル自殺。
トレープレフと同じくらいに死んでしまいたいニーナはどんなに傷ついてもそれでも生きてゆくことを選択する。
人生の一番多感な時代に最も深く共感していたチェーホフです。最愛の文学の一つです。
(8) イヴォ・アンドリッチ「ドリナの橋」(旧ユーゴスラビア)
現在では知名度の低い作品なのかも知れません。
知る人ぞ知るノーベル賞作者アンドリッチの代表作品。
民族の坩堝であるヴァルカン半島の何百年もの悲惨な民族抗争の歴史の目撃者とも言えるドリナにかかる橋に焦点を当てて、ムスリムやキリスト教徒たちの難しい生活を克明に描き出した稀有な作品。
オスマントルコ帝国とヴァルカン半島をつなぐ橋をめぐる物語。
本作品を読むと20世紀終わりのユーゴスラビア内戦は起こるべくして起こったのだということが理解ができます。
橋の上で繰り広げられる恋に別れに無情な死。
本当に素晴らしいユーゴスラビアの民族叙事小説です。
(9) ヴィクトル・ユーゴー「レ・ミゼラブル」(フランス)
アニメやミュージカルなどの二次創作でお馴染みですが、初めて作品に親しむようになったのは中学生の頃の読書でした。
大人になって読み返して、仮釈放されたジャン・ヴァルジャンの年齢になっていたわたしは初めて彼の生涯の壮絶さを思い知ったのでした。
コゼットやフォンティーヌ、エポニーヌにアゼルマ、ガヴローシュ、ジャベールにマリウス、誰もがミゼラブルな世界の中で必死に生きている。
その必死な生き方の全てに読むたびに見るたびに感動する。
二次作品では決して描かれず原作で最も衝撃的なのは、極悪人テナルディエは生き延びてアメリカ大陸に渡り、奴隷貿易商としてなおも悪事を続けながら強く逞しく生きてゆくということ。
ミゼラブルな世界の弱肉強食の図式はあまりに現実的。
ジャンに銀の燭台を与えたミリエル司教が実在した人物の行為をノンフィクション的に小説化したように、あの時代にはたくさんのテナルディエのような人物がのさばっていたのでした。
レ・ミゼラブルはあの時代の縮図ともいける本当にリアルな歴史小説なのです。
(10) ルーシー・モード・モンゴメリ「赤毛のアン」(カナダ)
最後はこの作品。
子供の頃は女々しい少女文学と馬鹿にしていたけれども、いまでは何度も読み返している座右にいつもおいている名作。
三十歳を過ぎた大人になって初めてまともに読んでみて感動したのでした。
英語で読むと聖書からの引用などがよくわかってさらに面白い(聖書の知識があってこそ理解できるのですが)。
恵まれなかった孤児ゆえに類稀なる想像力を養った彼女の成長物語。
生きてるって素晴らしいことを忘れた時に読み返すと元気になれる本です。
でも続編以降は成長小説の面白みはなくなってしまっていて、自分にはこの最初の本だけがかけがえのない本なのです。
以上が厳選した十冊。
思えばアメリカ文学には全く影響を受けてこなかった。
アメリカという国にまったく親近感を抱けないので、これからもきっとアメリカ文学とは縁がないことだろうと思います。
フォークナーもメルヴィルもスタインベックもヘミングウェイもサリンジャーもまともに読んだことはない。
英語詩を通じて詩人はいろいろ読むけれどもアメリカ臭いのは嫌い。
マーク・トウェインだけは例外的に大好き。
推理小説やSFも映画や漫画では大好きになっても原作は読んでいない。
基本的に時代を超えた価値を備えた欧州の古典が好き。
ヘルマン・ヘッセ、トルストイ、アンドレ・ジッド、ロマン・ロランらもたくさん読んだけれども含めませんでした。
ミラン・クンデラやクッツェー、トーマス・マン、ガルシア=マルケス、サン=テグジュペリ、ソルジェニツィン、ディケンズらも選外。
でもこうして書いてゆくと、長い間、読みたいと思っていたけれども、まだ読めていない本がたくさんあったことを思い出しました。
ある時期から、たくさん読むよりも同じ本を繰り返し読むようになりました。
好きな本をより深く理解することのほうが多読よりも質の高い読書になるとわかるようになったから、新しいものは最近はあまり読みません。
いまでは加齢のために知り尽くしていた小説も違った視点からよめることが非常に興味深い。
若いころは若い主人公に感情移入していたけれども、いまでは主人公の父親や主人公のメンターとなるような年配の人物と自分を重ね合わせて読書をしています。
また新しい本も読んでみたいなと読書欲が湧いたので、また別の本も紐解いてみようと思います。
11冊目になるような本に出会うために。
ここに挙げた十冊、一つでも手に取っていただけると嬉しいです。
追記:
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。