MSHWになる前のこと②

お金のことは詳しくはわからない。
けれど、祖母は裕福な感じだったし、僧侶という職業で「先生」と呼ばれ、祖父も「先生」と呼ばれ、周囲の人には立派に見えたことだろう。
幼少期の私も、「おじいちゃん、おばあちゃんってすごいな」と思っていた。
祖母の親戚は「おじいちゃん、おばあちゃん」を「おじいさま」「おばあさま」と呼んでいたし、帰る時の謎の儀式(手をついて挨拶をする)ことにも何の抵抗もなくしていた。

話は少し変わるが、私が幼稚園時代、持病にかかり、入院が必要な状態になった。通常は親が付き添って入院すると思うが、私はなぜか親と離れたくて、「一人で入院する!」と言い、付き添いではなく一人で入院した。ちょっと変わった子だったのだろう。注射も点滴も怖くなかったし、むしろドキドキした。

小学生の時、いうことをきかない私を、母は家から追い出し、玄関を閉められた。私は、泣き謝りながら玄関のドアを叩くということが何度もあった。その度に近所に住む優しいおばあちゃん(祖母ではない)が優しく話を聞いてくれて、母との仲介をしてくれた。今だったら虐待だと思う。
母は気性の荒い人だった。祖母もそうだった。
私が遠方に出かける際、焼き鳥を買ってくるように頼まれたのだが、間違えて焼く前の鶏の串刺しを購入し、祖母の家に持参したことがあった。それだけで祖母は私のことを叱責した。喜んでもらえると思って買ってきたのに、焼いていないものを買っただけでものすごく叱られた。
それでも私は、小さい頃は母も祖母も好きで、この頃は「母がいなくなったらどうしよう」とさえ思い不安に感じていた。

小学校高学年の時、従兄弟が中学受験をすることになった。
母は母の妹と仲が良いという表現が正しいかは謎だが、友達のように何でも話していた。そのためか?自然と私も中学受験することになった。
小学校の授業より面白い塾の講義に、抵抗なく、そして楽しく通っていた記憶がある。従兄弟は男の子だったので男子校、私は女子校を選択。
私は将来のことを何も考えていなかったし、母親もどういう校風でどんな学校か調べず、また子どもである私に説明もせず、ただ対抗心から中学受験させたのではないかと今でも思っている。
私は単に制服が可愛いという理由で、最初に学校見学に行った女子校に受験校を即決めた。遠くて通学は大変だったけど、本当に何も考えずに受験したものの無事に合格。
従兄弟も男子校に入学し、母も満足していたと思う。ちなみに妹も同じ学校を受験し合格。妹は偏差値の高い学校を目指せたのに、なぜか私と同じ学校を選択した。今でもなぜかわからない。

部活を決める時、母は「運動部にしなさい、テニス部が良い。自分がそうだったからそれが良い。」と半ば強引に決めようとした。私の通学していた学校のテニス部は休みがなく、上下関係も学校内で一番厳しいと言われる部活だったので断固拒否。本当は文化部系か、ダンスなどしたかったのだけど、母の猛反対にあい、結局折衷案で休みの多い別の運動部に入った。

母は不服そうだったが、運動部に入部し、中1から高3まで休むことなく続けた。最終的にはキャプテンにまでなった。中1の時に部活内でいじめに遭い辞めたいと思うことも多々あったが、それも何とか乗り越えた。
ここでの経験は私の人生の糧の一つ。それはまた後日。

母はとにかく自分の思い通りにさせたくて私を操作しようとした。
しかし私も中学生で思春期。当然、当たり前だけど反抗期が始まる。
言うことなんてきくはずがない。学校は部活があるので、夏休みなどは5時半に家を出て通学していた。自分でもよく頑張っていたと思う。
そこから母の状態がこれまでと変わってくる。

ちょうど自宅隣家のお姉さんが精神的に不安定になり、その面倒を母がお願いされて時々みることになった。理由はわからないけど、それは記憶している。その後から、母は不安定になっていたと思う。
刺繍の先生は続けていたけれど、料理を作ることが苦手だった母が、さらに作らなくなった。父が「もう少しまともなものが食べたい」と話していた記憶がある。お弁当も作ってくれていたけれど、生のピーマン(ほぼ焼けていない」が出てきたり、おかずがないような、人に見せられるものではなかった。またお弁当箱を忘れた私を母がパジャマ姿で追ってきたこともあった。パジャマ姿の母は、乗り換え駅で無言でお弁当箱を私に渡し去っていった記憶もある。怖かった。
「外に出たら銀行の人がつけてくる」「天井から誰かみている」など尋常ではない話をするようになった。また、「父と私ができている」「父が浮気している」と言うようになった。それでも刺繍の先生は続けていたし、祖父母の家には足繁く通い、見た感じは普通の生活をしていた。

母の異変に気づいたのは母の妹。私の叔母。父はあまり深く考えていなかったようだが、「父と私(子ども)ができている」というのを聞き、驚き否定したと聞いた。また、母は「死にたい」といって包丁を出してくることもあった。

毎日のように父と母は喧嘩した。そう、ありもしないこと、父が浮気していることや銀行員がつけてくること、天井から誰か見ている等、母が父を責め立てるのだ。その喧嘩を聞くことが辛くてしんどくて、私は部活に励んだ。中学時代は暗黒だった。高校受験がなかったことだけが唯一の救いだった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?