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絵空事でしかない「正しさ」 ~J.R.R.トールキン著「ホビットの冒険」のこと

あらすじ

中つ国の辺境の村ホビット庄。そこには牧歌的な暮らしを好むホビットという身長120センチほどの小人たちが暮らしていました。

そのホビット庄にある袋小路屋敷の主人ビルボ・バギンズの元に、ある日魔法使いのガンダルフが訪れます。

ホビットらしく「冒険なんてまっぴらごめんだ!」と思っていたビルボは、しかしガンダルフにそそのかされて、13人のドワーフたちとはるか西のかなた、はなれ山に向かうことになります。

かつてはなれ山にあったドワーフ達の王国は邪竜スマウグによって滅ぼされ、その宝の数々も奪われてしまったのです。

13人のドワーフとビルボ、合わせて14人の小人たちは、はたして無事はなれ山にたどり着き、スマウグを打ち倒すことができるのでしょうか――。

主人公がホビットな理由

この「ホビットの冒険」という物語について、実はずっと疑問に思っていたことがありました。

それはとても単純なことです。一言で言えば、「どうしてホビットが主人公なんだろう?」ということ。

そんなことを言ってしまえば身も蓋もないのかもしれません。でもこの物語が「魔法使いガンダルフの冒険」でも「勇者アラゴルンの冒険」でも「賢者ガラドリエルの冒険」でもないのは、なぜなんでしょうか。

この物語にはほかにもビヨルンやエルフの王、「指輪物語」にはトム・ボンバディル、白の魔法使いサルマンなど、ホビットなんかよりも明らかに強く、賢いものが多く登場するというのに。

そのことに関しては「指輪物語」のなかでのフロドとガラドリエルとの会話やボロミアがビルボから指輪を奪おうとする下りで少し触れられてはいるのですが、直截な回答というものは示されていません。

なぜエルフやドワーフ、魔法使い、ドラゴンといった伝統的な幻想の人物たちに加えて、ホビットという作者トールキンが自ら創造した新しい種族(決して戦いには向かない小人という種族)が必要で、そんな彼らに世界を支配できる指輪をゆだねる必要があったのでしょうか。

トールキンがこの物語を、ほとんどすべてのファンタジーのような「英雄物語」にしなかったのは、なぜなのでしょう。

その答えはもしかしたら、彼自身の中にある「善」の概念にあるのではないかと思うのです。

「善」は「正しい」?

僕たちが通常なにかを「正しい」と言う時、そこには「善い」という意味も含まれます。あるいは何かを「間違っている」と言う時、それは「悪い」という意味も含めて使います。

でもそれは本当でしょうか。「正しい」でしょうか。

例えば、ダーウィンは進化論を唱えました。厳密なことを言わなければ、今でもそれは「正しい」のでしょう。生物は環境に適応しようとするし、そうして適応しえた種はより生存しやすくなるかもしれない。

でもその進化論の思想が優生学を生み、白人による有色人種への差別やナチスの人種政策に理論的な裏付けを与えたのでした。

極端な言い方をすれば、科学的な真理、「正しさ」が、20世紀の初めには今の僕たちの考え方からすれば間違っている思想を後押ししたのです。

また、「人は神の似姿である」と考える人たちからすれば、「ヒトは猿から進化した」という思想はただそれだけで「悪」だと言えるでしょう。

つまり「正しさ」はイコール「善」ではないし、ただそれだけで「善」を保証するものでもない。

それは多分一種の摂理のようなもの。善人の頭上にも悪人の頭上にも等しく太陽が昇るように、科学的真理が善人にも悪人にも再現性があるように、法律が善人にも悪人にも等しくその解釈を適用するように。

一方「正しさ」は摂理であるがゆえに、「強さ」や「賢さ」や「豊かさ」を導くでしょう。例外はあるにせよ、体を鍛えないと強くはなれないし、勉強しないと賢くはならないし、収入より支出が多ければお金はたまりませんから。

でも、僕たちは知っています。自分よりも強いものが、自分よりも賢いものが、自分よりも豊かなものが、必ずしも自分よりも「善い」ものであるとは限らないということを。

つまり、「正しいかどうか」と「善いことかどうか」というのは、別の尺度の問題なのです。

ならば、なぜ僕たちは強さを、賢さを、豊かさを求めるのでしょうか。それらを求めることを「正しい」と感じるのでしょうか。

「英雄物語」なんて絵空事でしかない

「英雄物語」はどの文化でもどの時代でも語り継がれてきました。

強大な悪がはびこるとき、それを倒してくれるより強い善なるものが現れることを、僕たちはいつの時代でも期待してきたし、もしかしたら自分がそうなりたいと強く望んだ人もいるかもしれません。

でもそんな「英雄物語」なんて、ただの絵空事なのかもしれません。

もしもそのような英雄がいたとしたら、そのような客観的な「正しさ」と客観的な「善」を兼ね備えた人がいたとしたら、その人はもはや人ではなく「神」なのでしょう。

僕たちは客観的な「正しさ」を持つことはできるかもしれません。もしも「正しさ」が摂理であるならば。

でも、僕にとっての「善」とあなたにとっての「善」はもしかしたら違うかもしれない。あるいは同じ行動をしてもそれが「善」である場合とそうでない場合があるかもしれない。

倫理学者なら客観的な「善」がありうると言うかもしれないけれど、今の僕にはそれは受け入れることはできません。もしもそのようなものがあるとすれば、それは「科学」のようなある種の「正しさ」という権威がより上位にあるのだろうし、それでは話が逆だろうと思うのです。

宗教を信仰する人にとっての「善」もまた同じです。

誰もが「正しく」あることはできるでしょう。法律というのはそのためにあるのですから。

でも、誰もが「善く」あることはできるでしょうか。「善」の尺度は客観的ではなく、あくまでも主観的だというのに。僕たちは誰でも、心の中に「善」と「悪」の両方を兼ね備えているというのに。

「英雄物語」というのは、「正しい善」なのだと思うのです。だからこそ、英雄は「強く」「賢く」「豊かな」者たちです。王であったり貴族であったり。もしくは「豊か」でなかったとしても、結果的に「豊かさ」を得ることで終結する。

しかしこの物語におけるビルボや「指輪物語」のフロドは、そのような「強さ」や「賢さ」を持たぬものです。そしてある程度「豊か」なのだけれど、その豊かな生活を棄てて冒険をする。

トールキンは一つの可能性を示したかったのではないでしょうか。「正しい善」ではない「善」の可能性を。

そのためには、「強さ」も「賢さ」も「豊かさ」も必要ではなく、弱い者であれ、賢くない者であれ、豊かでない者であれ、少しの勇気と少しの知恵、そしてたくさんの幸運があればなしうることができる、それが「善」なのだと。

そのためにはホビットという存在が必要だったのです。

「善」を「正しさ」の尺度から自由にするために。

絵空事なのはどっち?

ガンダルフはビルボ達に言うのでした。

「元気を出して、希望を高くもて! ものすごい幸運に恵まれれば、いつか向こう側に出て、眼下に大きな沼地がひらける――かもしれぬ」

分別のある方は言うかもしれません。

「ものすごい幸運に恵まれれば、だって! そんな愚かなことできるものか!」と。

その言葉はきっと、とても「正しい」。

もちろんこのようなことはただの絵空事、物語の中だからこそ起こりうること、なのかもしれません。

でも、過去を振り返ればいつだって争いは繰り返されてきたし、虐げられる者がいなくなったことはありませんでした。

幾度も「英雄」が現れたことがありましたが、彼らは生涯のどこかで期待を裏切るか、あるいは彼らによってつくられた新しい秩序は結局時間の流れの中で腐敗し、また別の新しい「英雄」を産み出してきました。

いつの時代もいつの場所も、僕たちの社会の中の「悪」がなくなることはなかった。

これまで何人もの「英雄」が現れたというのに。

でも、いつの日か、僕たちが今よりももっと「強く」「賢く」「豊か」になれば、それらは本当になくなるのでしょうか。

そうして僕たちが「正しく」さえあれば、本当に社会は「善く」なるのでしょうか。

あるいは、これまでに現れたどんな「英雄」よりも、より「正しく」て「強い」英雄が現れたら?

そんな「英雄物語」こそが絵空事じゃないなんて、一体どうして言えるのでしょう。

むしろそんな「英雄」たちが示してきた「正しい善」こそが、本当はこの世界にはびこる「悪」の源なのかもしれないのに。

「英雄物語」ではないファンタジー

この世界には、「弱く」て「愚か」で「貧しい」けれど、「善」であるものは存在するのだと思うのです。

僕たち一人一人が「弱く」て「愚か」で「貧しい」としても、「善」でありうることができるのならば。

それは「正しくない=弱い」がゆえに無意味であるように感じるかもしれない。無理だと思うかもしれない。

でも、元気を出して、希望を高く持ちませんか。

もしかしたら、どんなに弱い「善」だって、ものすごい幸運に恵まれれば、いつかは達成される――かもしれない。

もしかしたら、本当の希望は、そこにしかないのかもしれない。

そんなのただの絵空事だ、なんて、一体どうして言えるのでしょうか。


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