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超失恋の物語 ~アンドレ・ブルトン著「ナジャ」のこと

先日の「シュルレアリスム宣言;溶ける魚」に引き続き、今日は「ナジャ」の話をしたいと思います。本作はまあ、一言で言えば芸術家アンドレ・ブルトンの失恋物語です。

とりあえず、まずはあらすじをばばっとご紹介しましょう。

あらすじ

主人公である作者はある日、一人の美しく、奇抜なメイクをした少女と出会います。彼女は自らを「ナジャ」と名乗りました。本名は分かりません。しかし本人が「私はナジャよ」というのだから、彼女の名は「ナジャ」なのです。

ブルトンとナジャは互いに惹かれあい、逢瀬を重ねます。ナジャという少女は、言うなればブルトンにとって理想の女性であるとともに、本物のシュルレアリストでもありました。シュルレアリストであるとはどういうかというと、論理に支配された現実を超越した主観的な現実に生きている存在なのですね。

ナジャはブルトンに言います。「あなたは私のことを小説に書くわ。きっとね」と。

その小説こそがまさにこの物語なのです。しかし、この物語は悲劇的な結末を迎えます。というのは、ナジャはその行動があまりに奇抜であったがゆえに、シュルレアリストであったがゆえに、精神病院へと入れられてしまうのだから。

そのことを誰も止めることはできなかった。そうして二人の恋は終わってしまった、という、そんな物語です。

超現実としての「恋」

で、重要なのはこの物語が作者の「恋物語」であるということだと思うのです。

この物語の冒頭で、作者は「主観」と「客観」についての考察を述べるのですが、そのことからも分かるように、そして「シュルレアリスム宣言」や「溶ける魚」が「夢」を「超現実」の象徴としたように、ブルトンにとって現実を超えた現実というのは、「主観的」なものなのです。

そう考えると、「恋」というものもまた、とても「主観的」なものだと言えるでしょう。

「夢の話」と同じように「恋の話」というものも、本来極めて個人的なものですよね。自分が見た夢や自分の恋にはみんな興味があるけれども、他人の夢や他人の恋には興味がないというのが普通の人の態度なのではないでしょうか。だからこそ世の中には「一般論」なるものがあるわけです。

しかしそうではない、というのがブルトンという人のちょっと変わったところで。自分が主観的なのは当たり前として、他人の主観もまた面白い、と。一般論なんてクソくらえ、というのがブルトンの世界に対する態度なわけです。

本書は「失恋」の物語です。それは言い換えるならば、この作品によってブルトンはナジャとの恋に挫折したことを物語っているのと同時に、実は彼自身が理想の美と考えたシュルレアリスム、超現実に対しても挫折した、という物語でもあります。

「シュルレアリスム宣言」においてブルトンは「私たちはみな論理に支配されている」と、そしてそこからの脱却こそが真の美に至る道だ、と唱えたわけですが、実はこの作品が描いているのは、「やっぱりそれは無理でした」という話なのです。

「ナジャ」は後年改訂された

そのことを証明するかのように、本書は最初1928年に発表されるのですが、1963年に改訂版が出版されることになります。「ナジャ」は白水社と岩波書店から本若ガ出版されていますが、岩波文庫の「ナジャ」は改訂版です。

しかしですよ、そもそもブルトンは「自動筆記」をやり出した人なのです。完全に「主観的」な物語を描くために、論理から脱却するために、考える前に書く、ということをし、そのことによって彼の芸術は美に近づくはずだったじゃないですか。

にもかかわらず、この作品においてはブルトンは発表から40年近くたった後に「改訂=書き直し」しているのです。つまりこの物語を「客観的」で「論理的」なものにしようとしているわけです。こんな矛盾はありませんよね。

岩波文庫には改訂にあたって新たに加えられた「序言」が収められており、その中でブルトンは言います。

「主観性と客観性とは、人間の一生のあいだに一連の闘いをまじえるものだが、たいていの場合、前者はまもなく具合がわるくなって退出してしまう。三十五年をへたのちに(本当だ、変色している)、客観性に対して私がはらおうとしているちょっとした配慮は、よりよく語ることへの多少の敬意を示すものにすぎない」

「シュルレアリスム宣言」において現実性を重視するがゆえの合理主義をブルトンは激しく攻撃したわけですが、実はそのブルトン自身がここにおいて主観性という「私」の問題に帰着している(合理主義の始祖であるデカルトの有名な言葉が「我思う、故に我あり」でした)ところはとても興味深いものと言えるでしょう。

ブルトン自身も気づいていた。改訂という行為は「シュルレアリスム宣言」や「自動筆記」を否定するものだ、と。だから序言で「改訂はしたけど、大事なところはしてないからね!」という言い訳をしてるんですね。

でも、その言い訳は苦しいなあ。やっぱり。そう僕は思いますけど、皆さんはどうですか?

ブルトンがあえて改訂した理由を考えてみた

さて、なんだかうまく頭のなかがまとまらないのですが、最後にもう一度「恋」について考えることでこの文章を閉じたいと思うのです。なぜブルトンは自らの考えを否定しているように見えかねない「改訂」を行ったのか、と。

一般論で言うと、「恋」と「愛」とは異なるものです。「恋」は一方的な思いであり、「愛」は相互的なもの。「恋」は「主観的」であり、「愛」は「客観的」である、と言い換えることもできるのではないでしょうか。

「シュルレアリスム宣言」も「溶ける魚」も、そして最初に発表された改訂前の「ナジャ」も、ブルトンにとって主観的な「恋」物語だったのでしょう。しかし最終的にブルトンはこの「恋」「改訂」という行為によって否定するのです。

ではこれは、彼が「恋」から「愛」へと立場を代えた、主観よりも客観を重要視する立場へと転向した、ということを表すのでしょうか。やはり彼自身も、彼が「シュルレアリスム宣言」で激しく非難した、現実に敗北した合理主義者へと変貌してしまったのだ、と、そういうことなのでしょうか。

もしかしたら、そうではないのかもしれません。彼はもしかしたら最終的に「恋」でも「愛」でもないもう一つの何か、そういうものを描こうとしたのではないか。そしてそれこそが彼にとっての「ナジャ」であり、「シュルレアリスム」であり、「至高の美」であると。

「要するに、それはつまり、なんなんだよ」と、現実的な貴方は仰るかもしれません。でも、それをどんな言葉で、どう表現すればいいのでしょうか。

多分、そのことを表す言葉というのはこの世に存在していないのです。この物語が示そうとした、その答えを表現する言葉は。

あるいはもしかしたら、その言葉はこの物語の最後の一文に象徴されているのしれません。

「美は痙攣的なものだろう、それ以外にはないだろう。」

この謎めいた一文の答えは、きっと貴方の「主観的」な世界にしか存在しない。

でも、それが存在することを貴方が誰かに伝えたいと思ったならば、貴方は何らかの「客観的」な方法を受け入れるしかないのです。

それは言うなれば、僕たちはこの世界に、この現実に生きている限り、「主観的」に恋をして、そして「客観的」に失恋するものだということ。そして、その代わりに僕たちは「愛」を手に入れる。

それはそれで、素晴らしいことかもしれません。だけどブルトンが描きたかったものは、もしかしたらその先の、恋を超えた何か、失恋を超えた何か、恋でも愛でもない、そんな何かがあるとしたら、それこそが「超現実」なのではないか、という、そんなことを思うのでした。 


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