身体の素晴らしさに全然気づいていない。
私たちのほとんどが身体の素晴らしさに全く気づいていないんじゃないか、と思っている。思考すること、知覚すること、自然治癒能力、呼吸機能、消化機能、ホルモン周期。
当たり前のことすぎて、そして避けられない人間としての社会活動に埋もれて、
「身体って素晴らしい機能・能力がある」と頭で知っていても、実際に「素晴らしい」と体感することや実感することは少ないように思う。
ほんっとうに体感・実感するって、私は生きていて数回あったのだけど、みなさんは体感・実感したことはあるだろうか。
例えば「身体の素晴らしさ」に気づくきっかけがあるとするならば、自分や誰かの病気や不調、それに対峙する過程や回復治癒の過程。その中で、自分のコントロールが効かない何かを痛感する。それでも身体は回復しようとしたり、何かそれに対する反応を起こしてみせる。それもまた少しコントロール外に感じたりする。
それに一度気づくと、自分の身体が意思に反して勝手に頑張っている不思議さに心底感動するようになる。全くもって自分のものであるのに自分のものでない感覚。それでも絶対的に私である、この感じ。
ああ、すごいなあ、素晴らしいなあ。とただ身体があることが不思議で、体感は少し軽くなりじわっと安定して温かくて優しい雰囲気が身体の中にある気がしてくる。体感する。(私の場合)
最近、PIVOTさんのYOUTUBEで物理学者の野村泰紀さんが出た回に観入ってしまった。量子論に基づく宇宙に関するとても興味深い話。その話をインプットして以降、この身体に対しての意識がさらに深いものとなったので軽く引用させてもらいたい。(これは物理学に対して知識のない一般人:私がその部分のみを引用しただけであり、これに対する見解は本編とは一切関係のない個人のものとして読んでいただきたい。)
上の説明には文脈があり、そして続きがあるのでぜひ観てみてもらいたいのだけど、今のところの研究ではこの宇宙はそのように見えるらしい。今後 “特別ではない”ということがまた観測されるのかもしれないけれど、現段階ではそのような”特別”という見方になるのも否定できないという。(と私は解釈した)
となると、今この宇宙の全てがとても特別に感じられる。冒頭に戻るが、その中でも生命をもつもの。そして人間。思考すること、知覚すること、自然治癒能力、消化機能、ホルモン周期。なにやら素晴らしすぎて訳がわからない。そんなものを私たちは持っているのだ。
社会活動の中で得られる喜び。
そして、根源的に生きていることに対しての喜び(身体の素晴らしさへの喜び)。
人間はどうやったって社会性を持つ生命であるので、両者は天秤にかけられないし、かけるべきものではないのかもしれないのだけれど、個人的に社会活動の中で得られる喜びだけを感じていくだけでは、喜びの深度が浅い気がしている。
社会活動の中で生きていくことに疑問や違和感を持たずに生きていける人は、身体を持っていることに対しての喜びを別に知らずとも楽しく生きていける。それはその人の性質と好みによるので、そこに上下関係はない。
ただもう一つここで、 “身体の素晴らしさへの喜び” を感じるメリットをあえて取り上げておくとするならば、
“身体の素晴らしさへの喜び” を体感することは、自分自身を認め受容していくことであり、自己愛である。
そしてそれを自分のみならず他者も持っているということに気づくならば、他者愛に気づくことにもなる。
人間は社会的に生きているので他者を愛すということは時にとても難しい問題であるのだけれど、そういう物の見方もあるよねというのを知っているだけで、他者を見つめる目線も少しばかりは優しいものになるのではないだろうか。
これも全て “気づき”なのだけれど、この気づきを得ていくには、また、その気づきを一時的なものとして終わらせずに育んで観念として定着させるには、やはり “身体に意識を向ける機会を増やす。” これが圧倒的に有効であることを経験を通して実感している。
身体に意識を向ける方法はこの世に数知れずあって、その方法はすぐに調べれば出てくるのだけれど、私自身としては、じっくりゆっくり動き、時には止まり(ストレッチやリラックスヨガ)、身体感覚へ意識というスポットライトを当てて身体感覚を自覚していく。これが重要だと思っている。
身体を持っているから辛いこともたくさんあるけれど、身体を持っているから感動することもたくさんあって。そもそも身体があるのがすごいし、身体って素晴らしいよねっていう話しでした。
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