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固有ベクトルとしての独立宣言。現代社会において喧伝される「多様性」とは、#8fbc8fを個性として認めることにすぎない。

人間の知覚能力は貧しい。
一方で、世界は無限の豊かさを持つ。
測定不能の世界をユークリッド空間的認識に落とし込んで「位置づける」ことが、知的征服者としての人間の野望である。
だが、この「理解」はどこまでも「近似」の域を出ない。
知の傲慢さは、この事実から人間の眼を背けさせる。

世界のあらゆる事象に対して、人間の知覚がこのように起こる、と仮定しよう。

まず、世界のあらゆる事象は、無限の多様性を持つ要素の集まりだとしよう。人間はその要素それぞれの間に類似性を見出し、似たものどうしでグループを作る(位相構造の導入)。そのグループ同士の近さ・遠さがある一定の条件(ハウスドルフ性)を満たせば、グループに所属する要素どうしの距離を定義することができる。その距離の種類に応じて、各要素を「位置づけていく」こと(n次元ユークリッド空間への埋め込み)ができる。私たちは、この「位置づけ」が可能になった時にようやく、ある物事を「わかった」という感覚を得ることができる。

つまり人間による世界理解は、二段階の独断的な恣意性に基づく。すなわち、「位相構造」の恣意性と、「埋め込み先のユークリッド空間の次元数」の恣意性である。

このうち、「埋め込み先のユークリッド空間の次元数」は、理解しやすい。
人間の思考の狭さは、その次元の数によって決まる。
ある人間と話していて、ある人間の思想に触れて、「狭さ」を感じることがある。それは、その人間がどれほど多くの事物について論じているかとは関係がない。どれほど多くのことを知っていようが、「思考が狭い」人間は存在する。それは「次元数の少なさ」に由来している。(※1)

たとえば、政治思想におけるマトリックスというものがある。無限の多様性を持つ個人の政治思想を、「平等⇔自由」「個人⇔国家」という二次元平面に落とし込むことで、現状認識をクリアーにすることができる。
しかしここで忘れてはならないのは、この捨象の過程で、さまざまなディテールが失われているという事実だ。現段階において、この射影はうまく行っているかもしれないが、局面が変わった際には、ここで失われた情報(たとえば宗教性の有無など)が本質的な違いとなって表れてくる可能性もある。

アメリカ政治思想におけるマトリックス

「次元数が多い」人間は、時と場合に応じて柔軟に射影平面を切り替えていくことができるが、「次元数が少ない」人間は、いつまでも同一の射影平面に依存し、時代遅れの認識パラダイムを引きずることで誤った判断を下し続けることになる。

時代によって射影平面を変更することで、世界のダイナミクスを上手にとらえられる

ここで、理解の対象を、「世界」から「人間」に移そう。
私たち人間は、お互いのことを理解しようとする。だが、この人間理解の仕方がまずいと、さまざまな争いや悲劇が生まれることになる。

人間の個性を様々な類型に分類する試みの歴史は長い。最近で言うと、橘玲氏による人間の8つの要素、「①明るい/暗い ②楽観的/悲観的 ③同調性が高い/低い ④相手に共感しやすい/冷淡 ⑤信頼できる/あてにならない ⑥面白い/つまらない ⑦知能が高い/低い ⑧外見が魅力的/そうでない」などがそれにあたる。初対面の人間に会って話すとき、私たちはその個性を自分のこれまで会ってきた人間についての記憶のデータベースに位置付けるために、ここでは8次元空間上の座標として相手の個性を射影する。

世の中には「ステレオタイプ」的認識への批判というものがある。「黒人だから足が速い」と思い込むのは間違っている、といった批判だ。彼らは、人間の個性を「黒人」という一軸に押し込めることを批判するかたわらで、「そこそこ裕福な家庭に生まれた黒人の男の子で、白人の祖父と弁護士の父親を持ち、学業成績は優秀である」などといった人物描写をよしとする。つまり彼らは、「肌の色、人種系統図、両親の職業、学業成績、うんぬんかんぬん」といったn次元座標空間において、「1,0,0,0,0,0,…」や「0,1,0,0,0,0,…」といった認識を批判する一方で「0.3, 0.2, 0.1, 0.1, 0, 0.2, 0…」といった認識は許しているのである。

この意味で、現代社会において喧伝されている「多様性」に対する理解とは、人間の多様性を「数直線上の多様性」に還元する意味で誤っているのであり、いうなれば#8fbc8f(※2)を個性として認めることでしかない。

では、どのような個性認識が最善か? それは、ユークリッド空間への埋め込み以前の個性の無限の多様性を認めることだ。バニラと沈丁花と乳の香りがそれぞれ特殊なように、私たちの個性も常に特殊であり、それをそれ以外の言葉で表現することを拒むものだ。もしそれをむりやりユークリッド空間に押し込めるとするならば、独立した次元、すなわち固有ベクトルとして埋め込むしかないのである。

色彩を数値化して以来、個性理解における人間の傲慢さに拍車がかかったように感じる。だが、人間の未発達な嗅覚受容体においても400次元の豊かさを持つ嗅覚という五感は、このユークリッド的征服を免れた聖域である。しかし現代の知識人たちは、この未征服の領域からあえて目を背けることで、自らの成し遂げた業績を誇大視しようとすることに忙しい。

この時代において、すべての個性ある人間は、貧しい認識をもって個性を数値化しようとする一群の人々に対してこう宣言すべきだ:

「私はあなたのユークリッド空間に埋め込まれうる個性ではない。たとえ公共の福祉のためにその牢獄に入ることを甘受するにしても、固有ベクトルとしての権利を期待したい」

固有ベクトルとしての独立宣言

※1 表現の解像度を上げるために、ここで「思考が狭い人間」を、「思考空間の次元数が低い人間」と言い換えてみよう。それはつまり、ある人間の思考空間をn次元ユークリッド空間として表現した時に、nの値が一定の閾値を下回る人間のこととして定義できる。ここで筆者が、人間の多様な思考をnという整数の数直線上の一点に配置したことをいぶかしむ方もいるかもしれない。しかしこれは、「nという認識力の高さの指標、すなわちある事物の特殊性を、その特殊性のままに感知する能力こそが、知の絶対的指標である」とする思想の意図的な表明である。

※2 #8fbc8fは、darkseagreen(灰みの緑系の色)に対応するカラーコード。

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