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ブルームーンセレナーデ chapter 2

ダブルムーン


ハワイ、オアフ島。
海に面して立つ小さな白い建物は、人々の記憶の中で今も生き続けている。賑やかな笑い声とコーヒーの香りが、目を閉じれば波音とともに蘇る。
その店の名前はブルームーン。
人々に沢山の思い出を残した店の物語。

🌙

その日タカヒトはノースショアのビーチへ撮影に出かけていた。
サンセットのあとの月がきれいで、ついノースショアに長居をしてしまったがそろそろワイキキの自宅に帰ろうと車のエンジンをかけた。
遅い朝食のあと何も食べていなかったので、さすがに空腹だった。
愛車のコンソールボックスに冷えて香りが飛んでしまったコーヒーが残っていたので飲んでみたものの腹の足しにはならない。
空腹を抱えたまま帰るしかなさそうだ。
このあたりはほとんど外灯がないが今夜はそれに困ることはない。
満月だ。
昼間の暑さが残した雲が時々月を掠めるが、光を遮るほどではない。
海沿いをしばらく走ると少し先に灯りが見えた。
あの場所に人家はなかったはず、と少し気になった。
自宅に帰るには次の交差点を右折するのだが、なんとなくその灯りに惹かれて、交差点の手前でアクセスを踏んで直進した。
その灯りは白い平屋の建物で、外壁にはBlue Moonの文字と椰子の木、その上に浮かぶ月が描かれていた。
「へぇ、こんな場所に店があるんだ」
タカヒトは駐車場に車を入れた。

🌙

日曜日は客の引きが早い。
今日はレイコが風邪気味だったので店を休んだ。
その代わりにいつものようにミズタニと、そして櫻子も店を手伝いに来てくれた。
ミズタニも櫻子もユウサクのサーフィン仲間だ。
ミズタニはランチタイムが終わると用事があると言って帰って行き、その後はユウサクと櫻子のふたりで店を続けた。
カフェの最後のお客さんが帰って、片付けをしていたところに背の高いロン毛の男が店に入ってきた。
黒いTシャツに黒のジーンズ。ハワイ暮らしの人らしくよく日焼けしている。
ロン毛の男は
「あれ、日本人?」
と言ってユウサクと櫻子を交互に見た。
「はい」
とユウサクは答えた。
「へえ、こんな場所に日本人がやってる店があるんだ」
とロン毛の男。
「まだオープンして間もなんですよ」
と櫻子。
「そうなんだ、でも、なんだか嬉しいな。あの、まだ何か食事、出してもらえる?腹ペコで」
「はい、大丈夫ですよ」
本当はもうほとんど食材がなく、店のメニューは出せないのだったが
「裏メニューになりますけどね」
とユウサクは答えた。
「裏メニュー、いいねー、シェフにお任せします。こんなに腹ペコじゃワイキキまで持たなくて」
「食べられないものはありますか?」
「なんでも食べますよ」
「わかりました、早く出せるものを作ります」
男はカウンター席に座り、ユウサクが出したグラスに口をつけた。
冷えた麦茶を一息で飲み干して
「これ、麦茶?うまいねぇ、生き返った」
と言ってタカヒトはふぅと息を吐いた。
空腹だけではなく、朝からコーヒーしか飲んでいなかった体は水分も欲していて、ほどよくミネラルの溶けた麦茶が全身に沁み渡るようだった。
スツールに落ち着いたタカヒトの横で櫻子はリュックサックを背負い、帰り支度を始めた。
「ユウサクくん、私は帰るね」
「櫻子も食べて行きなよ、送るから」
「そうだよ、送ってもらった方がいい」
「でもすぐ近くだから、大丈夫」
「ダメダメ、近くても、送ってもらうの、って、俺が来たせいだよね、帰るところだった?」
「大丈夫ですよ」
「ごめんねー。おれはフジイ、フジイタカヒト。写真撮ってます」

🌙

しばらくすると厨房からケチャップの香りがしてきて、ユウサクは湯気の上がる皿をタカヒトと櫻子の前に置いた。
「おぉ、ナポリタン!」
「いい匂い!」
タカヒトは早速口に運ぶ。
「うまい!」
タカヒトはふぅふぅと湯気を吹きながら、額にかかる髪が邪魔になったのか、髪を後ろで束ねた。
アルデンテよりわずかに柔らかく仕上がったパスタに少し甘めのケチャップが絡んでいる。
「美味しい!お母さんと行った日本の洋食屋さんみたいな味」
櫻子は器用にくるくるとパスタをフォークに巻き付けている。
「裏メニューじゃもったいないよ、表メニューにしたらいいのに」
タカヒトが粉チーズを少し足しながら言う。
「今のメニューだけで手一杯なんですよ」
「大丈夫、櫻子ちゃんが手伝うよな、ね」
「ええ、うん、手伝う」
「考えときます」
ユウサクも自分の皿を持ってきて櫻子の隣に座った。

🌙

タカヒトは食後にユウサクが淹れたコナコーヒーを飲んでいるときに、大きな窓の向こうに海が広がっていることに気が付いた。
「ここはいい場所だね」
濃厚で郷愁を誘うナポリタンの味を、力強くシャープなコナコーヒーが余韻に変えていく。
「ふたりとこうしていると、ここがハワイだってことを忘れそうになる」
「ほんと」
櫻子もうなづく。
タカヒトはふたりは付き合ってるの?と聞いてみようと思ったが、やめた。
ふたりはお互いに好意を持っているけれど、まだその思いを秘めたままにしている、そう演じ切れていると思っているようだったが、初対面のタカヒトにさえそれはバレバレで、ふたりの様子は微笑ましい以外のなにものでもなかった。
まぁふたりの関係の進展にそう時間はかからないだろうと思った。
「ここはサーフィンできるでしょ」
タカヒトが尋ねる。
「はい、できますよ。タカヒトさんはサーフィンは?」
「やるよ」
「大きい波は期待できないけど、波に乗ることを楽しむにはいい場所ですよ」
「じゃあ今度一緒に」
カウンターの横のグレーがかった水色の壁にユウサクがサーフィンをしている写真を飾るといい、カラーではなくモノクロの写真、コアウッドのフレームだな、とタカヒトは考えた。

🌙

「ねぇ、こっち向いて」
ユウサクと櫻子が店を出て建物を回り込んで、ちょうど外壁に描かれた椰子の木の前まできた時にタカヒトが声をかけた。
ふたりは一瞬視線を合わせて、向かいあったままタカヒトのカメラへ顔を向けた。
夜風がシャッター音を海へとさらう。
「撮れたよ、ダブルムーン」
タカヒトはふたりの元へ歩み寄り、カメラの液晶画面を見せた。
「ほんとだ、ダブルムーン」
店の外壁に描かれた椰子の木の上の月、その上には今夜の満月が写り、それを背景に立つユウサクと櫻子。
「いい写真」
数秒の出来事をタカヒトは連写でカメラに納め、コマ送りのようにふたりに見せた。
「今度プリントして持ってくるよ、今日のお礼に」
「賄い飯みたいなものしか出せなくてごめんなさい」
「いや、最高にうまいナポリタンだった。ありがとう、ごちそうさま」
男同士の握手を交わす。
タカヒトが店を出る時、櫻子が店のコーヒーで一番好きと言って手渡してくれたモロカイ島のコーヒーを一口飲んでエンジンをかけた。
コナコーヒーを男性的と表現するなら、モロカイ島のコーヒーは間違いなく女性的なコーヒーだと思った。
どこか甘く、華やかな香りととろけるような舌触りを残しながら喉を伝う。
バックミラー越しに櫻子がユウサクの車に乗り込む姿が見えて、ユウサク、送って行ったらキスくらい奪えよ、と心の中でエールを送っていると、タカヒトの視線に気付いた櫻子が手を振る。
タカヒトは海風が流れ込んでくる車の窓から手を出してそれに応えた。

🌙

それからしばらくしてタカヒトはブルームーンを訪れた。
約束通り、ダブルムーンの写真をプリントしてきたのだった。
しかし、遠くからでもそこに灯りがないことがわかったが、諦めきれず、確かめたくて店まで来て駐車場に車を停めた。
店休日なのか、ブルームーンには誰もいない。
この店に灯りがないだけで、やけに波音が大きく聞こえた。
「また来るか、、、」
今夜もあの日ここを訪れたときと同じ満月だった。
ひとりで見るダブルムーン。
月明かりと車のスモールライトだけでノースショアのこの場所にひとり立っていると、宇宙のどこかの星にいるように気分になった。
満月でいくらか数を減らしてはいるが、それでも星々は圧倒的な数で空を埋め尽くしている。
つけっぱなしのカーラジオではブルーノマーズが歌い始めた。
Talking to the Moon だ。
「今夜はトリプルムーンときたか」 
ブルーノは切ない思いを月へ語りかけていたけれど、タカヒトは「今度はあのふたりに会わせてくれよ」と月に願いをかけてみた。
走り出したタカヒトの車にハワイの月はどこまでもついて行き、その行く先を照らしたのだった。

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