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坊ちゃん2024-令和-

この物語は一部フィクションであるが概ね実話である

生まれついてのADHDとASDと学習障害とディスレクシアで子供の頃から苦労している。

初めに私が他人と比べて大きく劣っていると言う事に気づいたのは小学校に入ってすぐの事である。
学校では入って早々に随分と色々な事をやらされたがクラスの34人はそつなくこなす事を私は一つもこなせなかった。
どうにも私は他人と大きく違うと言う事に気づいて親にも話したが親は目もくれずお前の努力が足りないだけだと冷たくあしらわれた。
35人のうち私だけが何も出来ない事が続き、とうとう私は絶望し学校の三階から泣きながら身投げしようとしたら担任の黒部と言う女にしこたま殴られた。

黒部からはたびたびいびられた。
私がディスレクシアで文字が正しく書けない事を黒部は知っていたが習字の時間に私の書きかけの半紙を取り上げそれを大きく掲げ「皆さん、シュトゥルヒみたいにこう言う汚い文字は書かないで下さいねあっはっは」と言って私を笑い物にして嘲った。
私はいたたまれず教室を飛び出したが、同級生が総出で戦争犯罪人でも見つけたかのように私を追いかけ回し図工室へ追い詰めて羽交い締めにしたところを黒部はまた私をしこたま殴った後、連絡帳を取り出し「授業中勝手に教室を飛び出したのでこのような事が無いよう厳しく指導されたし」と記入し「必ずこれを親に見せろ」と凄まれた。
私は親に連絡帳を見せるとともに黒部に嘲られクラスの笑い物にされた事を話したが、親は私の言う事を信用せず私を殴った。

私をいびったのは担任の黒部だけではなかった。
図工の村上と言う教師が居たが最初の図工の授業で私が完成品を持っていくと突然村上は私の完成品を空に掲げ大声で叫んだ。
「皆さん、このシュトゥルヒさんが作った作品はダメな例です。皆さんはシュトゥルヒさんみたいな作品は作ってはいけませんよあっはっは」と言って私を晒し者にして嘲った。
私は元来創作が好きだったがこの村上と言う女と図工の授業はハエや蚰蜒よりも嫌いになった。

村上以外の教師も皆、私を嘲った。
私は学校のサッカークラブに入っていたがそこでは練習のあとに帳簿へ自分の名前を書く規則になっていた。
そこの石田と言う教師は他の生徒が名前を書くと「なんだこの汚い文字は、シュトゥルヒ並じゃないかあっはっは」と言って私を笑いの種にした。

小学校では常に私は責められる一方であった。
あるときなど放課後に隣の団地町の小学校の生徒が「ここに知恵遅れの男子がいると聞いて見に来たがお前がそうなのか」といって訪ねてきたのには閉口した。
同級生が団地町の小学校の生徒に私の話をしたのであろう。

クラスにはジャニーズ事務所のアイドルを追いかけ、同一化し、いつも大きな態度を取っている女子のグループが居たが、外見こそ人間の全てであるとする彼女達からすれば発達障害から来る不随意運動を発症していた私は死ななければならない存在だったらしく「気持ち悪い」「死ね」「世界で一番優しい人もお前が死んだところで泣かないだろう」と散々はやし立てた。
彼女からすれば見た目の悪い事は等太平洋戦争で敗北した事以上の重罪であり生かしてはおけなかったのであろう。
その一方で彼女達は同じ学校内にある支援学級の生徒が交流の為に教室に来ると「かわいいかわいい」と言って猫でもあやすかのように可愛がっていたのは何故なのか謎である。

この小学校で散々に扱われ、更に誰もが出来る事が私だけ出来ない問題の原因は何なのかとしきりに頭を捻ったが、私は何かどこかで重大な罪を働いてこの周りの人からしきりに責められる悪夢を見る刑罰に処されているのではないかと考えるようになった。
それしか理由が説明出来なかった。
だからこの酷い小学校を卒業したときに頭にかぶせられたメットを外され夢から覚め「これで君の刑罰は終了した」と言われる物だろうと考えるようになったが、結局小学校を卒業してもメットは外される事も夢から覚める事も無かった。

小学校を卒業して近所の中学校に通うようになって、私は剣道部に先ず入った。
顧問は福島と言って美術部の顧問と兼任で、部活の時間は常に美術部に入り浸っており剣道部の練習は殆ど見に来る事は無く終わりの時間の挨拶に来るだけだった。
美術部には女子が大勢いたので自然と美術部に足が向いたのであろう。
剣道部の部長は町井と言って暴力沙汰で有名な神奈川県警の巡査の息子であった。
町井は私や他の1年生に「俺は子供の頃から剣道を巡査の父から教え込まれた。神奈川県警の警官との合同で何度も殴られたから、やめたいと親に言ったら続けると言うまで殴られ続けた事があってからやめる事は諦めてここに居る。だからおまえたちも練習に来なかったり部活をやめようとしたら殴る。既にやめようとした部員は何人も殴った」と脅かしてきた。
それから練習が始まったが発達障害で出来の悪い私である。
出来が悪い出来が悪いと町井は私を福島が美術部に入り浸っているのを良いことに殴り続けた。
半年してとうとう耐えかねて部活をやめるというと烈火のごとく町井は私を殴りつけ、とうとう校内暴力事件になり剣道部は廃部となった。
事件の翌日、町井の母親が私と私の母に話したい事があると言うので行ってみたら謝罪の言葉でもあるのかと思いきや「剣道はそういう物ですから……」と言って笑い出した。
息子も息子なら父親もそうだし母親もそうなのだ。
この団地町の神奈川県警の巡査の一家は総じてその程度の頭が太平洋戦争で止まっている哀れな輩なのである。
私は心底呆れ果て、第二希望の吹奏楽部に移籍することとなった。

高校に入ると、適性検査でどのような仕事が向いているかを判定する機会があった。様々な適性と適性職業があったが私は「どれにも該当しない」と出た。
説明文を読むとどれにも該当しない人は芸術家等が向いていると書いてあったが今を思えば芸術家で食っていける者等限られているのだからこれは遠回しにお前は何をやらせてもダメだから飢えて死ねと言われているのとさほど変わらないだろう。
ともあれ、私は友人からPCを借りる機会があり、文字を書く不自由さから解放され、CGを作ったり小説をWORDで書いたりと創作三昧の日々を送っていた事もあり、どうせ一般職が向いていないならと言って進路案の一つとして、代々木アニメーション学院の入学資料を請求した。
すると数日もしないうちに書籍やビデオやCDがぎっしりと入った段ボール箱が送られてきた。
それを見た両親は烈火のごとく怒り狂い「大学受験から逃げるなら家から出て行け」と怒鳴り散らし、ついには私を身ぐるみ剥がして裸にして玄関まで引っ張っていった。

その時、家のメイドのアユミが「どうか許して上げて下さい」と両親に土下座して懇願してきた。
このメイドは元々IT長者の一人娘だったがITバブルの瓦解で独り身になったところを家で拾って居たのである。

危うくマンションの共用廊下でストリーキングを演じる寸前まで行ったのを救ったのはこのメイドのおかげだった。
その後趣味でプログラミングの勉強を夜中にしているとアユミはどこで材料を集めたのかは知らないがスイーツを作って出してくれた。
小遣いも貰えずアルバイトも禁止で画材一つ買うのに苦労していた私のために小遣いも時々渡してくれた。
高校は漫研にいて文化祭に出すイラスト制作に使うコピックスケッチを買うのにどうするか悩んでいた私には助け船だった。

両親は何をやらせてもダメな障害者の私より健常者の弟を溺愛していた。
同じ日に私と弟が風邪をひいた時、母は私に向かって「またサボる気か、お前なんか家から出て行け」と壊れたラジオのようにヒステリックに繰り返し叫んだが、弟には「大丈夫?おかゆ食べる?」と甘い声で囁いていた。

しかしアユミは弟には目もくれず私の事ばかりだった。
アユミは私を「本当に心の優しい人」と言っていつも褒めちぎるが気持ち悪かった。
これにも根拠はあって、ある時、夏の豪雨で電動車椅子が故障し立ち往生して低体温症になっているお年寄りと鉢合わせた時、これはいかんととっさに反対車線を走る救急車の前に飛び出して引き止め、お年寄りを病院に届けた事がある。
この一件だけで私は菩薩か何かのように素晴らしいとアユミは言うのである。
私はアユミを可哀想だと思った。
こんな何も出来ない私に心酔している。
私が専門学校に進み弟は大手大学に進んでも弟より私の方が立派だと言って憚らないのである。

そんなにもアユミは私に優しくしてくれた。
逆に私に優しくしてくれたのはアユミしかいないのでその恩は大きい、しかし今となっては返しようがないのだ。

やがて私はIT派遣会社に就職してしばらくすると、ストレス耐性のなさからうつ病で動けなくなってしまった。
寒い冬の日の事である。
私が寝込んで動けないのを知って、父は家の風通しを良くするためだと言って私の寝室の窓を早朝に開け放して一時間は閉める事を認めなかった上「ぐうたらしおって気にくわない」と言って寝込んでいる私の掛け布団をはぎ取り冬の寒空の下寝室の窓を開け放した。
それでも動けずにいるととうとう私の身体を蹴り飛ばしたり踏みつけたりするのである。

私は家庭内暴力の問題を取り扱う福祉団体に片っ端から電話したが「あなたを助けることは出来ません」と言われた。
何故かと問い質すと「あなたは女性ではないからです」と言われ、どうも福祉を生業とする団体は男に親を殺されたのかそれとも女にそこまで飢えているのかとひどく呆れた。

私を蹴り飛ばそうとする父をアユミは必死に止めたが非力な女故いつも突き飛ばされていてそれを見るのも悲しかった。
ともあれ、うつ病程度でも障害年金が貰えるとその筋の者から話を聞くと私は急いで障害年金を申請しそれから数ヶ月間父からの暴力に耐えて金を貯め隣町のアパートにアユミと引っ越して生活保護を申請した。
それから数年、療養生活を続けたがアユミは何一つ文句を言わなかった。
そればかりか「坊ちゃんにはこんな小さなアパートは似合いませんわ、今に神宮前の豪邸に引っ越しましょう」と言う。
これには参った。神宮前の豪邸に住もうと思ったら会社の重役か社長にでもならなければ無理だ。
しかし、アユミは今に私が出世して神宮前に豪邸を構えると信じている。
いつしかそれが私の人生の目標になりつつあった。

それから数年後、私は再就職した。
職業は大手IT企業のプロジェクトマネージャーである。
これまでの経験が評価され、そこそこの立場は得られたのである。
初出社の日、玄関でアユミはまた言った「坊ちゃんが豪邸に住まわれるのはいつですか」
私は「そう、遠くない未来にね」と言って手を振って分かれた。
途中、何度か振り返ったが、段々とアユミが小さくなっていった。


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