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小説家

『そろそろ書かれてはいかがですか』
まただ。部屋の電気を消すといつもの声が聞こえてきた。
一人暮らしの部屋のどこからか、だが意外に近くから聞こえてくるこの声。
『昨日、隣のO夫人からお聞きした話などぴったりじゃないですか』
日にちが変わって数時間。ちょうど今頃の時刻になると、時々私に語りかけてくる。
いつからだろう。怖くはない。むしろ落ち着くような、聞き覚えのある低い静かな声。
「そうだなぁ・・・始めるとしようか」
私はキッチンで熱いお茶をカップに注ぎながらその声に答える。
出版社から依頼されて〈顔〉をモチーフに怪異な話をこの春から連載することになっていた。
まだプロットを書いているが、O夫人の話ももちろん入れるつもりだ。
カップを片手に、テーブルのスタンドライトだけ灯されたリビングへ向かう。
座り心地のいい椅子に腰を下ろすと、パソコンのスイッチを入れた。
『BGMならシャコンヌが合うと思いますよ。バッハじゃなくてヴィターリの方です。CDはほら、あそこに』
「君はなんでもよくわかってるねぇ。部屋の中のことも、私の考えてることも」
パソコンにCDを入れると、壁の前のスピーカーから心を揺さぶられるような、もの悲しいヴァイオリンの音が流れ出した。カップをゆっくり口に運びながら耳をかたむける。
「なるほど。これなら雰囲気がぴったりだ。さすがだね」
『喜んでいただけて嬉しいですね。それでは仕事のおじゃまにならないよう、口を噤んで静かに見守らせてもらい』
その声が終わらないうちに、私は顔をあげた。
テーブルから離れた壁にかけられた大きな鏡の中に、暗い部屋を背景に私ではない顔をした男が椅子に座っていた。
『・・・私が話している間は鏡を見ないでほしいと、あれほどお願いしましたのに』
苦々しそうな表情をしてそう話す顔が、瞬時に私に戻った。
「そう言われるとよけいに見たくなるものだよ。ましてや私は小説家だ。書くためならどんなことでもするさ。そう・・・まず1話めは君の話にしようと思うんだが」
そう言うとまた私でない顔が現れ、口元だけ歪めてにやりと笑った。
この男は誰だろう。いや、誰でもかまわない。
甘美な悲劇性と誰かが言っていた。そんな曲を聞きながら、私は自分の顔が写った鏡からパソコンに視線を戻し、それからゆっくりとキーボードに指を措いた。

 人の顔は(かお)でなく(かんばせ)と読むこともある。それは


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