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『ウクライナとコサック』 デコサキゼーション(コサック解体)について

ウクライナ国歌にはコサックについての言及があります。

「兄弟たちよ、我らがコサックの氏族であることを示そう」

ウクライナの各地には、コサックを扱った記念碑などもあります。日本ではあまり知られていないようである「コサック」とは、そもそも何なのかを少し考えてみましょう。

コサックとは?

コサックとは自由を愛する民族で、特にウクライナと南ロシアに居住していました。これらの人々は、その卓越した騎馬術と戦闘技術から、「騎馬民族」または「戦闘民族」として知られています。彼らの生活は、自由な精神、独立心、そして軍事的技能を強く象徴しています。

伝統的なコサックの居住地域
コサックは東ヨーロッパと南ヨーロッパのステップ地帯(草原地帯)に住む半遊牧的な民族的集団で、その生活様式と軍事的な才能から、ウクライナやロシアだけでなく、ポーランド、リトアニア、モルドバなどの地域にも広く存在していました。地域防衛に貢献する一方で、彼らはしばしば傭兵として他の地域や国家の軍隊に参加していました。

コサックは歴史的にはDnieper、Don、Terek、およびUralの川の流域にある人口がまばらな地域に住んでいました。彼らはロシアとウクライナの歴史的、文化的発展に重要な役割を果たしました。

コサックの文化とコサックダンス


日本でよく知られているコサックダンスは、コサックの戦闘精神と喜び、そしてコミュニティの結束を象徴しています。このダンスは、1600年代の南ロシアとウクライナの軍事コミュニティで生まれ、ホパクとも呼ばれます。コサックの兵士が戦闘から帰還すると、男性たちはこの即興のダンスで祝いました​​。これはコサックの戦闘精神と喜びを表現する一方で、彼らのコミュニティと一体感を強める役割も果たしていたと考えられます。

コサックダンス以外にもコサック独自の文化はあります。コサック文化は非常に豊かで、料理や衣装など、ダンス以外の多くの側面を持っています。

コサックの料理
コサックの料理は、その生活の厳しさと彼らが生活する地域の自然環境によって形成されました。魚、肉、野菜、穀物を基にした料理が多いようです。代表的な料理としてはボルシチ(ビーツとキャベツのスープ)、ピロシキ(肉や野菜を詰めたパン)、ウクライナのダムプリングであるヴァレニキなどがあります。

コサックの衣装
コサックの伝統的な衣装は、非常に特徴的です。男性は通常、シャプカ(高いフェルト製の帽子)を被り、シャルバー(股引)を着用します。また、チェルカッセカと呼ばれるコートも着用します。これは胸部が絞られ、腰から下がフレアになっている特徴的な形状をしています。女性の衣装は、通常、彩色されたエプロンと長いドレスで、頭にはスカーフが巻かれます。

コサックの音楽
コサックの音楽は、彼らの生活、歴史、伝説を表現するための重要な手段であり、独自のリズム、旋律、調性を持つ独特のスタイルを持っています。コサックの歌は、戦闘、愛、自然、日常生活など、さまざまなテーマを描いています。コサックの音楽は、バラライカ、ガルモニカ(アコーディオン)、ドムラなどの特定の楽器によって演奏されます。

ウクライナとコサック


ウクライナでは、コサックは国家のアイデンティティと自己認識の形成に深く影響を与えています。彼らの歴史と英雄的な伝説は、ウクライナの国民意識や民族の誇りを育てる上で重要な要素となっています。現在でも、ウクライナのコサックは、国の歴史や文化に深く根差した存在として認識されています。

ウクライナのコサックは、16世紀から18世紀にかけてウクライナで活躍した戦闘の達人であり、自由を愛した彼らはしばしばウクライナの民族的象徴とされています。ウクライナのコサックたちは、オスマン帝国やポーランド・リトアニア共和国などの侵略者と戦い、ウクライナの自由と独立を守る役割を果たしてきました。このため、彼らは英雄として讃えられ、ウクライナの多くの記念碑や芸術作品で描かれています。

第一次世界大戦、第二次世界大戦とコサック


コサックは16世紀から20世紀初頭までのロシア帝国において、同時に民族性と特別な社会階級の集団でした。その軍事的伝統により、コサックの部隊はロシアの歴史を通じて重要な役割を果たしました。

第一次世界大戦では、コサックは主にロシア帝国の一部として戦いました。彼らの騎兵部隊は、東部戦線での戦闘において重要な役割を果たしました。特に騎兵としての彼らの能力は戦場で非常に価値がありました。

しかし、1917年のロシア革命後、コサックのコミュニティは混乱しました。一部のコサックは赤軍に参加し、一方で白軍に加わったコサックは反革命派として活動し、ボリシェヴィキ政権に反抗しました。特にドン地方のコサックの首領アレクセイ・カレディンは、革命に反対する勢力を組織しましたが、彼の努力は最終的に失敗に終わりました。ボリシェヴィキの軍がコサックの拠点を占領し、コサックの軍は逃れざるを得ませんでした。

第二次世界大戦では、コサックの役割はさらに複雑になりました。コサックはさまざまな側面で戦争に関与しました。一部のコサックはソビエト連邦の一部として戦い、また一部はヒトラーのドイツに協力し、ナチス・ドイツの占領地での反パルチザン活動に参加し、反スターリン派として活動しました。しかし、他のコサックはソビエト連邦の防衛に貢献しました。戦争が終わると、一部のコサックは西側諸国に亡命しましたが、多くはソビエト連邦に引き渡され、強制労働や処刑の対象となりました。ソビエト連邦はコサックの伝統を抑圧し、コサック部隊を解散させました。

しかし、1980年代後半のソビエト連邦のペレストロイカ時代には、コサックの子孫たちは彼らの民族的伝統を復活させるために行動を起こし、1988年にソビエト連邦はかつてのコサックの集団を再建することを許可しました。現在では、世界中で350万から500万人の人々が自分自身をコサックの文化的アイデンティティと関連付けています。しかし、それらの人々の中には実際にコサックの血を引いている人々もいれば、コサックの伝統と文化を尊重する立場から、そのアイデンティティを採用した人々もいます。それゆえ、コサックとは、一部の人々にとっては民族的なアイデンティティであり、また他の人々にとっては文化的なアイデンティティとなっています。

ウクライナ国歌の中に含まれる「ウクライナの栄光と自由がまだ死んでいない」というフレーズは、ウクライナの人々の強い精神と自由を求める意志を象徴しています。これはまた、コサックの精神がまだ生きていることを謳っているのかもしれません。

ウクライナ文化とコサック

ウクライナ国歌の中に含まれる「コサックの血を誇る」というフレーズに立ち戻ると、深い意味を持っています。それはウクライナの人々が、コサックの歴史、伝統、そしてその戦闘精神を誇りに思っていることを示しています。コサックの血は、ウクライナの人々が自分たちの国を守る決意を表現するための強力な象徴であり、そして彼らの歴史と文化の一部を形作る重要な要素となっています。コサックの衰退とその後の復活は、ウクライナの人々が自分たちのアイデンティティをどのように捉え、どのように表現するかについての示唆に富んでいます。これは、伝統と愛国心、民族意識、そして現在のロシアとの戦争状況といった要素が絡み合っています。それゆえ、「コサックの血を誇る」というフレーズは、単に過去の歴史を誇るだけでなく、現在と未来への希望と決意を表現しているのです。

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