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はじまりのはなし…退屈感⑦

「時間だけがひたすらに過ぎて行きました。それでも時間は余るのです。埋め合わせても、埋め合わせても…次から次へと現れるのです。
繰り返すばかりで、もう飽き飽きして…最早この報われる事のない虚しい気持ちを味わい尽くす事のみが、麻酔の様に気怠く悶々とした感覚を紛らわせてくれるのです」

婦長さんは何とも気丈な人だ…若い看護師さん達も、熱心に不安定な状態の彼女に寄り添ってくれているが、婦長さんはどんな事態にもいつも毅然とした態度で対応してくれる。
今朝も何かあったらしく…彼女とは面会謝絶になっていたのだ、婦長さんの力強い「安心して下さい」の一言で、僕の精神は随分と救われた。

1時間…2時間…今日はどのくらい待つ事になるだろう...彼女が入院したばかりの頃は、一日中面会謝絶で彼女の寝顔も確認させて貰えずに帰る様な事も頻繁にあった。
その頃から比べれば、待合室で過ごす事も慣れ、落ち着かなくて何も手に付かず、ウロウロとトイレや自動販売機の前を行ったり来たりしていた頃が懐かしい。今では待合室の新聞を読んだり、駅前にある小さな商店街の書店で購入した古本を読む事が出来る程の余裕が生まれた。

僕は中学生の頃…学校の休み時間が一番嫌いだった…クラスに溶け込む事が出来ず、楽しそうに学生生活を謳歌しているクラスメイト達を横目に勉強をするフリをしながら、ずっと寂しさを噛み締めていた。賑やかであればある程、周囲には溶け込む事が出来ず、孤立してしまい...いつも退屈だった。
そんな僕を救ってくれたのが本だった…詰まらないはずの休み時間が楽しみに変わったのは読書を始めてからだった。

僕の住んでいた町には、小さな町営の図書館しか無かった。今思うと蔵書の種類や数もそれ程では無かったが、学校の図書室しか知らない僕にとってはまるで別世界だった。
初めて足を踏み入れた時…館内には熟成された本の湿ったような独特の匂いと物静かな中に時折心地よくページを捲る音や本を棚からスーッと出したり、ストンと戻す音が漂っていた。

利用者の年代はバラバラで、僕のようにいつも教室の隅っこに居そうな学生連中や、虫眼鏡で新聞を黙々と読む老人…サンダル履きで寝癖頭の中年男…絵本コーナーには大きなお腹の妊婦がいた。

其処にドタドタと階段を登る音が近づいて来て、慌ただしく受付カウンターへと駆け込んだ。ドサリと徐ろに数冊の本を机に置くとそれまで保たれていた静寂が安易に壊され、本や新聞を読み込んでいた利用者達の視線が一気に音の震源地へと集まった。

「返却期限が切れています」

「すみません…」

「注意して下さいね」

本棚の隙間から覗いていた中年男がニヤリと笑った。 さっきまで暇そうに眼鏡を拭いていた司書の女は勝ち誇ったように満足気である。
ただ、その僅かな変化は一瞬で、すぐに何事もなかったかのように、私語厳禁の空間へとリセットされた。
コソコソと陰口を叩く人もいない。誰も他人に興味がないのか…興味がないフリをしているである。その瞬間に僕は学校では感じる事の出来ない居心地の良さを味わっていた。

それから毎日の様に僕は図書館に通い、次第に興味の無い本にまで手が伸びた…ギリシャ神話や古事記、哲学や心理学、宗教に関する本も隅々までじっくり読む程では無いがある程度は読み漁った。
しかし、その頃に読んだ書物を思い返してみても、彼女の語るはじまりの話には、中々類似する話は思い浮かばない…
唯一、明代中期に創唱した宗教結社である羅教の事が書かれたものには類似した点があったように思うが、キリスト教や仏教とは異なり詳しく書かれた本は出版されておらず、これ以上調べる事は出来そうにない。

そもそも彼女は、全く本を読まない。何でも最初に読んだミステリー小説の犯人が冒頭で発見された死体の男だったとかで…それからと言うもの本を買った事も無ければ、読んだ事もないらしい…
ただ、大学生の頃にケーキ屋さんと掛け持ちで、漫画喫茶でアルバイトをしていた事から、今でもレンタルビデオショップで漫画を借りて来るように頼まれる事がある。僕も漫画を読まない訳では無いが、彼女が好んで読んでいる様な少女漫画には詳しくはない…もしかしたら…いや、マーマレードボーイやコジコジには...

「お待たせしました」

「あっ…はい」

「今はもう眠りからも覚めて…落ち着いています。すぐに昼食の準備をしますね…」

「有難うございます…あっ…あの…また暴れたんですか?」

「ええ…でも、今はもう落ち着いています…安心して下さい。」

彼女は数ヶ月前に剃刀で手首を切ってしまった…剃刀を持たせてしまったのは僕の不注意だった。その頃は体調の良い日が続いており、以前の様な笑顔も増え、退院もそろそろ検討しようという予定になっていた。そんな大事な時に、僕の些細な油断から大変な事になってしまったのだ。
婦長さんや先生には、入院当初からはあなたの知っている彼女だとは思わないで下さいと念を押されていたにも関わらず...彼女が自殺未遂なんてする筈がないと思い込んでいた。

僕の失敗が招いた不測の事態にも、婦長さんは他の看護婦さん達に的確に指示を出し、迅速な対処をしてくれた。婦長さんは...命の恩人である。

「ごめんね…朝から待ってたんだって…最近お薬の所為か、お昼前まで寝ちゃう事があって…」

「気にしなくていいよ…沢山眠れる事は元気になって来てる証拠だから…」

彼女は今朝の事を一切覚えていない…最近は興奮した躁状態の時は勿論、落ち着いている時の記憶が欠落する事も増えた。今の何気無い会話さえ明日には忘れているかもしれない。

「あっ…忘れてた」

「えっ…何?」

「この前借りて貰った漫画の返却期限切れてるんだった…ごめ〜ん」

彼女の眉毛が綺麗なハの字になった。合掌した手を眉間に押し付けながら、半べそをかいて必死に謝っている。洗面台の横にある低い棚の引き出しを開けると眼球の大きな少年少女が描かれた漫画が3冊と、レンタルビデオショップの袋に、返却期限が書かれたレシートが入っていた。

「あっ、本当だ」

「延滞料金…私が払うね」

彼女は困り顔で、開けた引き出しの中に手を突っ込んで、徐に財布を探している。

「いいよ…ポイント貯まってるから、ポイントで払うよ…」

「ごめんね...」

返却期限が1週間は過ぎている…店員さんはどんな顔をするのだろう...


続く

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