昭和の暮らし:(17)80年代のアルバイト

80年代になると、私も大学生になり、自分のお小遣いを稼いで好きなものを買うことができるようになった。大学在学中にはいろいろなアルバイトをした。

最初に働いたのはジャスコだった。現在イオンと呼ばれる、あのジャスコである。ジャスコにはよく家族で買い物に行っていたが、買い物では通ることがなかった紳士服売り場でアルバイトを始めた。
社員2名に、パート・アルバイトが5名という編成だった。
社員よりも長く努めているパートのおじさんは、紳士服の専門店での経歴あって、ネクタイを選んだり紳士服のマナーなんかをお客さんに伝えたりという仕事をしていた。私はレジ打ち要員で、たいていレジのところで立っていたが、合間にTシャツを畳んだり男性客の首周りの計測をしたりした。Yシャツの知識もなかったけれど、そのバイトで、ボタンダウンとかのファッション用語をいくつか理解した。

その売場にいた別の大学の男の子と仲良くなって、一緒にサザンオールスターズの名古屋城ライブにも行った。

しかし、その男の子との仲がめんどうになって、ジャスコはやめて新たなアルバイトを探した。名古屋ならではの、喫茶店でのアルバイトだった。

その喫茶店は、成り立ちの背景が大事なので、その話も書いておく。
名古屋といえばういろう、青柳ういろうと大須ういろは二大ういろうである。青柳総本家は一時期「フルール」という洋菓子ブランドも展開していた。石川橋のコメダができるよりも前、60年代に、名古屋市瑞穂区雲雀丘というところに、レストランフルールという大きなレストラン複合施設があった。ビアガーデンのようなテラスがついたレストランだった。そのレストランは程なくして別の業種に変わり、今は跡地に銀行ができている。

アルバイト先は、そのフルールが栄地下街につながるセントラルパーク地下街に開いた高級喫茶店だった。アールヌーボーの内装をパリから持ってきたという店内には、シャンデリアとかレリーフの施されたガラスもあって真っ赤な絨毯が敷いてあった。中心あたりにカウンターのような場所があってそこで注文の飲み物などを準備する。
その室内装飾や調度品は好きだったけれど、社員の2人が意地悪だったし、「高級」を演出するためのお給仕の段取りが面倒で、すぐに別のアルバイトに変わった。

次に長く務めたのは病院受付けのお手伝いのアルバイトだった。個人開業医のそのクリニックは長者町商店街という名古屋市の繊維業エリアのど真ん中にあった。80年代初頭の景気がいい時代にあっても、繊維業はすでに斜陽気味だった。ビル街はどれも古びたビルで、私のアルバイト先のビルも古かった。お隣が内科で、私のアルバイト先は皮膚科だった。繊維問屋の会社員の人々が仕事帰りに通院したり、仕事の途中に薬を取りに来た。
午後の診療が始まる時間が、大学の3限が終わって移動するぐらいの時間だったかと思う。地下鉄の栄駅から歩いて、週に3回ほど通っていた。地下街の突き当りだった丸栄百貨店のさらに向こうの出口から出て、丸善のビルに入って本を見繕ったり、その隣の明治屋ビルに入って輸入食材を眺めたりして時間を潰したからアルバイトに向かった。
どのビルも今は解体された。

ついでながら、アルバイトのことではないけれど、病院に向かうまでブラブラした栄のあちこちのことを書いておく。

丸栄と明治屋の間の道は「呉服町通」といって、古い地域だった。プリンセス大通りと呼ばれる区域もあった。その呉服町通りの一角に、古いテーラーとか美容院なんかがあって、「ケルン」というドイツ風の喫茶店があった。80年代のケルンは、記憶は曖昧だが、レンガ造りの建物で、ステンドグラスの傘のあるランプが置かれたテーブルがある暗めの喫茶店だったと記憶している。覚えているのは、そこで何度も注文したチェリーのタルト的なお菓子である。キルシュタルトだったのか、チェリーなんとかだったのか、名前も覚えていないけれど、ジューシーで肉厚のチェリーが焼き込まれた焼き菓子だった。

アルバイトの話に戻り、病院のアルバイトを辞めて始めたのがテレビ塔のすぐ足元にあったカレー屋だった。
カレー屋と行ってもイタリアントマトの系列のおしゃれなカフェ風カレー屋だった。セントラルパークの入り口のような場所に、少し階段を降りたところに4店舗、ピザハット、お好み焼き屋さん、イタトマ、そしてカレーやのテイスティストーリーがあった。控室は4店舗共通で、大学生のアルバイトの子たちと仲良くなり、お陰で楽しい学生生活を過ごした。

妹も大学生で、やはり栄のビールやソフトドリンクの大手メーカーのアンテナショップでアルバイトをしていた。
栄から地下鉄とバスで家に帰るが、その最終のバスは11時台の最初の方だったと思う。バス停で妹と会うこともしばしばあった。妹のアルバイト先に行ってビールを飲んだこともあった。

ジャスコもフルールもカレー屋もなくなり、妹の働いていた店はビルごとなくなった。
ケルンは、どこにあったかすら正確には特定できないほど再開発が進んだ。
長者町の病院は、もうすでに先生が亡くなられて閉院となり、その医院が入っていたビルの特定も今やできない。