午后の終りに。

沖さん https://twitter.com/mu_mii_?s=21 からご依頼いただき執筆した短編です。
作中に登場する絵画は沖さん作のものをモデルにしています。
(こちらの作品 https://www.pixiv.net/artworks/90987098 )

本編に限りなく近いIF軸ですが、現代モノとして見てもらえれば。

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 着信画面を見た途端、エドワードは嫌な予感がした。正確に言えば着信が来る数瞬前から不安はあって、画面に表示された名前が予感を確実に裏付けただけだ。だがその名前は、彼にとって、自分の気分や予定より優先すべき人物であって、彼は嘆息を一つ置いてから通話を拾った。すぐに、声がする。
「やあエドワード。起きていた?」
「起きてたよ、珍しく。どうした?」
「もし、……仮に、もしも、だけど」声の隙間に金属のぶつかり合う音がする。エドワードの推理によれば、それはクローゼットの中のハンガーが奏でる音だ。「君が今日の日付に予定を書き込んでいなくて、書き込むほどでない用事さえ頭の中に無いというなら、そして何より君が晴天を外で堪能する気があるなら、僕と一緒に出かけるのはどう? いや、もちろん気が向いたら。君が休日を休養に充てるタイプとはよく知ってる」
 常に無く回りくどい誘い文句に目眩がして、エドワードは片手を額に当て、そのまま髪をかきあげた。通話の相手——カーティスが雄弁になるときは、すこぶるご機嫌なときかあるいは、非常に不機嫌なときのどちらかだ。今回が前者であるのは疑いようがない。だが、機嫌が良いからといって油断ができるわけではない。人の気分というものは浮かれたときほど落ちやすい。その周囲にいる人間は、どちらにせよ気疲れする。
 通話口でカーティスはなおも話し続けている。幼い頃を思い出させる、熱に浮かされたような口ぶりを聞き流しつつ、うなじに手を置く。エドワードはまだ起きたばかりで、今日の自分がどういう顔で一日を過ごすか、考えていなかった。というのもエドワードには——これは最近彼が発明した気に入りの比喩だ——OSが二つ備わっていて、起動時にどちらを選ぶか決める必要がある。一度、どちらかのOSを選べば、途中でもう片方を起動して切り替えるのは難しい。別にできなくはないのだが、バッテリーやらメモリやらを消耗するのだ。
 普段は何かと便利だから、〝後から入れたほう〟のOSを起動させているのだが、あちらは生来のものではないから稼働するにも負荷がかかる。幸い相手は幼馴染、元々のOSのことも知っているから支障はない。〝あれ〟ならできる様々なことが、こちらのOSじゃ上手くいかないが、わがままな親友に一日付き合うくらいならどうにかなるだろう。
「どこに行く?」話の切れ目に口を挟む。「これからシャワーだし、遅くなるぜ」
「ゆっくり支度してくれていい。昼過ぎには間に合うだろう? 行くのはギャラリー。その前にランチ」
「せいぜい浮かねえカッコをするよ」エドワードは自らのクローゼットに目をやって、ため息をついた。「ああ、かっ怠い……」
「ほんとうに服に興味がないね。僕があげたのがいろいろあるだろ? ぜんぶ同じブランドでいいから、揃えておいでよ」
 あきれたような拗ねたような声音に一瞬ひやりとしたが、親友の上機嫌はまだ続いているらしかった。水を差さぬよう気を付けなくては。ベッドから腰を上げ、クローゼットへ歩を進める。今現在のエドワードは、ボクサーショーツを穿いているだけだ。
 扉を開く。何があったやら、あまりきちんと覚えていない。自分が身に纏う服について些かの欲求もないので、相手に合わせることにする。「お前は何を着ていく?」
「今考えてる。そうだね、でも、美術鑑賞だから、あまり目にうるさいのはね。シンプルですっきりしたものがいい。エド、君は? 何を着る?」
 エド。彼にそう呼ばれると、つい、噛み締めてしまう。
 昔からそうだ。柔らかな声で、くすぐるように俺を呼ぶ。その声で呼ばれ、微笑まれると、何だって差し出したくなる。だがそんな献身を彼は望んでいないのだ。彼の魅力が自分を捕らえ放さないでいることを、エドワードはいつだって彼自身に見せないようにしてきた。とはいえ薄々分かっているだろう。それでも、手前勝手な思いを彼に背負わせるわけにはいかない。脆い羽で舞う蝶が、軽やかなままいつまでも遊んでいられますように——それがとうに壊された願いだとしても。
「なんでもいい。お前に合わせる」
「もう、君はいつもそう。たまには僕にも『相手に合わせる』楽しみをくれよ?」口を尖らせるさまが目に浮かぶ。「まあいいさ。僕はそうだね、この前買ったサマーニットを着ていくよ。薄手の、涼しそうな」
「あの白いやつ」
「オフホワイト」即座に訂正し、電話口で笑う。「それにネイビーのボトムス。分かった?」 
 それじゃ、と軽い一言を残し通話は切れた。電子音を聞いてから、こちらも画面を切り、ベッドへ放る。薄手の涼しげなサマーニット——どこのだっけ? 朧げに覚えはあるが、考えてみれば彼は薄手の涼しげな(オフホワイトの)サマーニットをいったい何着持っていただろう。この前買った、と言うからには、俺にも特定できるだけの情報があるはずだ。直近のデートは五月の初め。どこへ寄った? プラダ……じゃないな。表通り。ディオールだ。彼はきっと、俺にもあのとき買った服を着てくることを期待している。何を買わされたっけ……
 こめかみを揉みながら、しばらく頭を悩ませた。やがてようやく記憶が戻り、エドワードはハンガーを手繰る。目当ての服を引き出すとクローゼットのドアに掛け、それからシャワールームへ向かった。出る前にブラシで整えないと。ろくに手入れをしてないと知れば、彼がいい顔をするわけがない。


 タワー・ヒル駅を出て、階段を登る。彼は広場の手すりに腰掛けていた。エドワードを見とめると、イヤホンを外しケースにしまう。笑顔だ。ひとまず、合格らしい。
「よく覚えてたね。すぐ分かった?」
「五分はかかった」返答し、目の前に立つ。「先に飯?」
「色気のない言い方だこと。どこに行こうか、僕はそれなりに愛国心があるけど、この街の料理が美味しいとは口が裂けても言えないしね」
 立ち上がった彼を見下ろす。薄手の、涼やかな、(オフホワイトの)サマーニット。色の深いネイビーのボトムス。白いキャンバス地のスニーカーは彼が近頃よく履いているもので、ちらりと覗く靴下のグレーは絶妙な色合いだった。いかにも彼が好きそうな服。いかにも、彼に似合っている。
 こちらの視線に気づいてか、彼もまたエドワードの頭から靴まで目をやって、わざとらしく笑みを深める。白いTシャツ、黒のサマージャケット、インディゴのデニム、黒のコンバース。中のTシャツを買わされたとき、彼はエドワードのワードローブから合わせるべき服を指定した。何を言われたか思い出すまでにかかった時間は五分とちょっと。シャワーを浴びている最中、思い違いに気づいたことを含めれば、六分弱だろう。
 カーティスは口角をうんと上げた顔で背伸びをし、エドワードの耳元へ寄った。彼の左手が己の利き手にそっと触れる。
「惜しいな。一つミス」トントン、と彼の人差し指が、中指を叩いた。「指輪、忘れたね?」
 ああ、そうだ。思わず舌打ちが出た。何か忘れているような気はしていたのだ。普段は指輪など嵌めないから、まるで意識の外だった。
「でも、他は完璧。ベルトも僕が言ったのと同じ。君にちゃんと見分けがつくか心配だったけど」
「まあな。実際間違えそうになったよ、編み込みのヤツを付けようとして」
「ああ、素材と色が似てるね。でも編み込みって感じじゃないよ」
「だから途中で気づいた。それで? 昼飯はどこに行くんだよ」
 視線を落とすと、彼はスマートフォンでマップを開いていた。「サブウェイでいい?」
「いいよ。食えりゃなんでも」
「そう言うと思った。だから、味より景色を重視だ」スマートフォンをポケットにしまう。「テイクアウトして、食べながら行こう」
 景色と言ってもね——エドワードは続く言葉を呑んだ。どうせ汚い川を渡り、ありふれた公園を横目に道路を歩いていくだけだ。カーティスのほうも見応えのない風景なことは重々承知で、ただ店内で時を過ごすよりいくらか良いと言いたいのだろう。普段は気が滅入る曇りの街も、ごく珍しい青空のおかげで確かに少し輝いて見える。
 目的のアート・ギャラリーはギャラリーといえど規模が大きく、小さな美術館くらいの見応えはある。高さの揃ったアパートの並ぶ狭い通りをしばらく行くと、コーヒーショップを過ぎたあたりで唐突に家並みが途切れる。それまで六階相当の建物が続いていたのに、急に一区画ほどの開けた敷地が現れるから、少し虚をつかれる。エドワードは食べ終えたサンドイッチの包装紙を丸め、彼のそれも受け取りゴミ箱へ捨てた。
 塀に囲まれた敷地の奥にギャラリーはある。廃倉庫を改築したとかで、煉瓦造りの外観にその名残が窺えた。中へ入ると、グレーの床と、暗い天井にまず目がいく。金網を張った天井には蛍光灯が三列に並び、床のリノリウムがそれを映していて、廊下の広さも相まってともすると病院のようだ。両脇の壁は真っ白で、三部屋ある展示スペースの入り口が四角くあいている。展示スペースでは、天井も含めた三方が白一色の空間を作る。それがギャラリーの名の由来だ。
「日本の作家が参加してるそうだ」手前のスペースで足を止め、彼は言った。「向こうのギャラリーとの合同展」
「ここに贔屓の作家でも?」
「いや。今のところは」彼は肩をすくめる。「今日、見つかればいいと思ってる」
 入り口を通る背を見つめ、少しして、後を追う。コンテンポラリーアートを扱うこの広いギャラリーに、彼はエドワードを何度か連れてきた。その度にエドワードは、なんとも言えない居心地の悪さに苛まれている。自分にはアートを鑑賞する感性がほとほとない。どの作品も奇を衒っているようにしか見えなかった。適当に何か丸めたり、様々な素材をくっつけたり、絵の具をぶちまけたりしているだけ。そんなの何でもありじゃないか。疑問をそのまま口にすると、カーティスは「その通り」と言った。「何でもありなんだ。これがアートだって強い確信があれば、人を害さない限り何をしてもいい」。ますます分からなくなった。だったらどこに差が生まれる?
 本物と偽物の差とはいったいなんなのだろう。どれが感性の産物で、どれが空虚なポーズなのか。他人が見て分かるものだろうか。明確な基準があるわけじゃないのに、みんな何を以てしてこれらを評価しているのか——
 自然と俯きがちになる。下を向いた視界の隅に絵が過ったのは、その時だった。
 立ち止まり、顔を向ける。それは他の作品に比べて随分小さなキャンバスで、壁の足元に立てかけてあった。暗いネイビーの地の上に、カナリアイエロー、白、青、赤、茶、モスグリーンの絵の具が、時に混色しつつも元の色を留めて思うさま塗りたくられている。かがみこんでよく見ると、チューブから直接ひねり出した絵の具を、あえて潰し切らずに残したような塊がいくつか窺えた。パレットナイフで伸ばしたのだろう痕跡を眺めていると、画家の手の動きが見えてくる。マチエールというんだったか。「実物を見る重要性の最も顕著なものの一つ」として、昔カーティスが語っていた。その時はよく分からなかったが、今なら少し頷ける。
 背後で気配がした。振り向くと、彼が立っている。「何を見ているの?」
 エドワードは立ち上がり、一歩引きながら下を指した。入れ替わりに彼が進んで、身をかがめる。
「この絵? 日本の作家だね」
「そーかよ。キャプションは読んでない」
「いいね」と、彼はつぶやいた。「色合いが好ましい。鮮やかだけど風合いがあって、味わい深いよ。好きか嫌いかで言えば好きな部類だ。惹かれるものがあるし、目に留まるのも分かる」
「何が言いたい?」
 彼は傍らの友人の声に苛立ちを嗅ぎとって、やや間を置いた。「——でも、硬い」
「硬い?」
「そう。……自由は極度に積み上げた経験の上に成るものだ」彼は膝を折り、絵に顔を寄せた。
「経験と技術が築かれて、論理に目と感性が磨かれ、画家が洗練され切ってようやく自由に筆が動く。僕が思うに、まだその段階じゃない。まだ考えてるし、まだ、迷ってる」
 そこで彼は振り返り、胡散臭そうに片眉を上げた友人を見て微笑んだ。
「とはいえ一番大事なことは、君がこの絵を気に入ったってことだよ。君はこの絵の根底にある魅力を見たんだ。ということはつまり、鑑賞者として、君は僕よりも優れている」
「そうかよ? 聞いている限り、俺に目利きの才能はないということになりそうだがな」
「よい目利きがよい鑑賞者だとは限らないよ。僕が見てるのは、結果としての表面だけだ。君はその奥、根本を見てる。それがどういうことだか分かる?」
 エドワードは首を振った。彼がこれから何を言うにせよ、どうせ買い被りだ。コイツは四六時中俺を褒めようとしていて、俺が優れているように解釈したがる。自分の好きな人間には素晴らしい人であってほしいのだ。そんな期待に応えるために俺は随分努力していて、自分でも馬鹿みたいだと思う。それでも、叶えてやりたくなる。
「君は画家が見ているものを直接感じ取ったってこと。この絵が写したがったものを、この絵を通してちゃんと見たんだ」
「そんな大層なもんじゃない。俺は何となく目に入ったから立ち止まっただけで、この絵が良いのか悪いのか、少しも分かってない」
「でも他の絵を君は通り過ぎた。引かれたから見てみる気になった。違う?」
「まあ……」改めて絵に目をくれる。「そうかもしれない」
 確かにまじまじ観察する気になったのは珍しいことで、彼の言うことは大げさとしても、彼の気には留まらなかった何かに袖を引かれたというのは事実なんだろう。彼の言説を借りれば、絵を鏡としたとき、この絵に写った像が何なのかカートには分からなかったってわけだ。俺はこの絵に、何を見たのだろう。この絵の何が差だったんだろう。俺にとって、……何が、違ったのだろう。
 カーティスはますます上機嫌で、友人の横顔を見ていた。広い空間を見渡してから、また口を開く。
「好きか嫌いかでいいんだよ。何を写しとろうとしたか万人に分かるものがあったら、そりゃもう大傑作だけど、傑作だけがアートなわけじゃない。優れたものであればあるほど、写しとろうとした像はより強烈に伝わってくるけど、でも結局大事なことは〝それ〟が伝わるか否かのほうだ。解像度が低くても、ブレててもピンボケしていても、〝写したいもの〟が見えるなら、その絵は成功してるんだ。何となく好き、何となく嫌い、何となく気になる。それで十分」
「つまり……」エドワードはいつのまにか組んでいた腕を解き、手を振った。「この絵は俺が気になった時点で、もう〝いい絵〟なんだってこと?」
 カーティスは満面の笑みだ。「そう! ね、美術も悪くないだろ」
 どこまでも青い瞳がきらきらと、エドワードを見上げる。自分もまた彼を見つめている。そのことに気づいて不意に、何かが腑に落ちた気がした。結局、見るのは俺たちだ。そこにあるものを見てしまうのは。ある一瞬、角度や視線がうまく噛み合って光が映る。そこには良いも悪いもない。大した理由もない。ただそうなる。
 それはたぶん、恋に似ている。
「次のスペースも見よう。大きな作品があるよ」
 意気揚々と歩き始める彼を追い、背後で笑う。自分が彼を見つめる視線は恋ばかりでは有り得ない。そのことに安堵してもいる。彼のほうはどうか知らないが、どちらだっていい。このままで。
 白い空間を抜けていく。まだまだここから、出られそうにない。


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2021/07/02:ソヨゴ

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