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自分の中にある、自分に対する差別感情の話

 久しぶりに記事を書く。書き始める前、これまでに書いた記事を読み返してみた。公開している記事は3つしかないが、書き始めたものの途中でやめてしまったものが沢山ある。

 その中で僕は何度も「自分は自己肯定感が高い。自分のセクシュアリティの事も頭では肯定的に捉えているつもりだ」と書いている。

 だが、最近、カミングアウトできる人が増え、色々な人と話す中で、実は自分が一番、自分自身に対して差別的な感情を持っているかもしれない、周りが受け入れてくれても、結局はその差別感情に自分自身が向き合わないと、時々唐突にやってくる苦しい時期はなくならないのかもしれないという考えに行きついた。

 僕がカミングアウトした人たちは、今のところ皆受け入れてくれ、カミングアウト以前に比べて仲が良くなったように感じる時もあるくらいだ。そのお陰で随分と自分の内心がのびのびとしていると感じることも多い。

 でも、それでも、まだ時々、自分のセクシュアリティに対してどうしようもない暗い感情が沸き起こってくることがある。どうやら、自分の周りに安全地帯が増えても、自分の中に一番危ない部分があるような気がするのだ。一体、自分自身を否定しようとするこの危険な感情はどこから生まれてきたのだろうか。

 最近読んでいる本に、アーヴィング・ゴッフマンという人の研究が紹介されていた。彼は、社会に存在する否定的な固定観念であるスティグマが内面化される現象に着目した。人は社会生活を送る中で、集団に帰属意識を持ち、その集団を自分のアイデンティティの一部として受け入れる。この時、集団と自分とを同一視する為、集団に対する固定観念を、自分に対する固定観念として吸収し、その固定観念が行動に影響を及ぼす。

 ゴッフマンは、人は他者の視線で自分の価値を評価した結果、社会が与えるスティグマを自分の中に内面化し、自分自身に羞恥心を抱くようになると説明した。

 「女性」「男性」「富裕層」「貧困層」「高学歴」「低学歴」、そして「性的マイノリティ」・・・。人々はこうした様々な集団の中に、自分が帰属する場所を見つけ、社会一般に皆がその集団に対して持っている印象を、自分のものとして捉えるようになっていくというのだ。その印象が否定的なものであった場合、自分自身が、自分自身に対する否定的な感情を抱くようになる。

 しかもその結果は個人のレベルにとどまらない。他人から露骨な差別を受けなくても、自分自身がみずから消極的に行動することで、社会に存在する差別的な構造が自然と維持されていってしまう。

 差別をうける当事者が、差別を認識しながらも、社会的なスティグマを内面化しているが故に、差別を受けているのは、自分が足りず、劣等なせいだと考え、差別に抵抗しないのだ。そのことで差別をうける当事者もまた、自分を差別する社会構造の維持に加担してしまうのだ。

 この部分を読んで、僕自身が持っている自分に対する負の感情もまた、今まで生きてきた中で周りから受けてきた色々なメッセージを、内面化してできたものなのではないかと思い至った。

 そこで、今まで自分がセクシュアリティというものに対してどんなメッセージを受けとってきたか、思い出してみた。いろいろな出来事が、自分で思っていたよりも鮮明に思い出された。どれも出来事としては些細なことだが、意識したとたん鮮明に浮かび上がってくる程、自分の中に残っている。

 幼稚園の頃、兄のクラスメートのバレエの発表会を観に行って、バレエに惹かれた。その時惹かれたのは男性のバレエダンサーではなく、女性のバレエダンサーだった。教室の発表会だったので、ほとんど男性がいなかったのもあるかもしれないが、きれいなドレスを着て踊るバレリーナに憧れた。その後、母の友人が簡単なドレスを作ってくれ、それを着て踊って遊んでいたのが写真にも残っている。

 また、小学校に上がる前後、お正月に祖母が来ていた着物に惹かれ、頂き物が包まれていたきれいな模様がついた風呂敷(ただし化繊だったが・・・)を腰に巻いて、親と一緒に公園に出かけていた。

 社会が一般的に抱く「普通の男の子」像とは異なる事をしていたわけだ。今は、自分の体の性に違和感はなく、異性装をしたいという願望も持っていないが、いわゆる「普通の男性」に当てはまらない感覚を持っていた、という意味では、当時からその傾向があったようだ。この時はまだ、そのことを純粋に楽しんでいたと思う。

 変化があったのは小学校に上がる前後だろうか。演劇などが好きだった僕は、度々友達や兄弟と演劇ごっこをして遊んだ。その中で僕はよく女性の役を演じていた。この点は幼少期と同じだが、この頃になると、自分が女性を演じることが周りの人にウケるという事をわかって、笑いのネタとして演じていたように思う。この時から、「普通の男性」からの逸脱は、社会の中では笑いのネタだ、という事を意識しだしたのかもしれない。

 何がきっかけでそれを意識するようになったのか。はっきりとしたことは覚えていない。でも、1つだけおそらくその頃の事であろう出来事で、はっきりと浮かぶことがある。ある日、公園に遊びに行く前に、何を思ったか、顔に絵を描けるおもちゃのペンで、唇を赤く塗って出かけようとしたことがあった。当時の僕は、親には気が付かれないと思っていたのだが、玄関で母親がニコニコと「それでいくの?」と尋ねてきた。その瞬間、なんだかとても恥ずかしくて、「あ、さっき遊んだの忘れてた・・・」と嘘をついて洗い流し、それから公園に出かけた。当時はっきりとそう認識したわけではないが、「普通の男」からの逸脱に羞恥心を覚えた初めての出来事だったかもしれない。

 その後、女性を演じることでウケをとることは減っていった。スポーツはあまり得意ではなかったし、音楽や舞台が好きで、楽しくて美しいものの方に強い興味を持っていたから、一般的にイメージされる「普通の男の子」像とは違ったかもしれないが、自分の好きなことをのびのびとできることに喜びを感じていたし、そのことで周りから評価してもらう事も多かったから、かなり自分に対して肯定的に生きていたと思う。

 それが少し変わったのは、中学生になって、自分が惹かれるのは異性ではなく、同性であることを自覚しだしてからだと思う。最初はその事実に向き合うのを避けていた。幼い頃、いつか身に着けた「『普通の男性』からの逸脱は笑いの対象」という意識が、「普通の男性」ではない自分を受け入れることを拒否したのかもしれない。幼少期は「普通の男性」とは異なる言葉遣いや服装、成長してからは好きになる性別と、「普通」からの逸脱は異なる場面で起こったが、それに対する「笑いの対象」という負のイメージは、どこか共通するものとして、自分の中にあったのかと思う。

 それに加え、自分がゲイであるという事実を認識してからは、「ゲイ」という属性に対して、あるいはゲイにとどまらずセクシュアリティがマイノリティに属する人たちに対して社会が抱くイメージに敏感に反応し、それを自分への評価として受け取り、内在化させてきたのだと思う。そうしたメッセージは、セクシュアルマイノリティを積極的に侮蔑する言説からよりも、異性愛を前提とする社会の色々なメッセージから、自分のような人間は社会の中に想定されていない存在なんだ、「異端」なんだ、ということを感じさせられる出来事から多く受け取ってきた気がする。

 例えば、僕の母親はモノを捨てられない人で、僕が子供の頃読んでいた絵本やおもちゃを一々とっているのだが、「もう手放せばいいのに・・・」というたびに、「いつか孫が使うかもしれないでしょ?それを楽しみに取っておくの」という話を聞かされていた。子供好きな母は、孫ができるのを本当に楽しみにしているのだ。将来好きな人ができても、その人と子供を作ることができない僕は、自分の将来は母の期待に添わないのかもしれないな、とどことなく感じ、申し訳ないような、悲しいような、複雑な気持ちでその話を聞いていた。(兄弟が2人いるのがせめてもの救いである。)

 昔、よく女性のまねごとをしていたことや、バレエや女性ものの着物に憧れていたという思い出話をしているときに、母が「くんちゃんがそういう人(トランスジェンダーを想定しているのだと僕は受け取った)だったらどうしようかと思ってた~」と言っていたことも鮮明に覚えている。僕はトランスジェンダーではないが、「当たり前」から外れたセクシュアリティを持っている。そうだとしったらこの人は困るのかな、と、なんとなく、モヤモヤした気持ちを感じた記憶が、まだはっきりと残っている。普段は比較的多様性に対して理解のあるし、昨年の夏にはカミングアウトをして受け入れてくれた母親なのだが・・・。

 学年が上がるにつれて、クラスの中で増えるいわゆる「恋バナ」や、合宿の夜、男子部屋で始まる下ネタ。これも静かに僕の中に自分の事を否定する感情を作り上げていったものの1つな気がする。恋バナをすることが悪いとは言わない。だが、僕にとって「好きな人いないの?」と探りを入れあうあの場は、その楽しい雰囲気に参加したいという気持ちが湧くものの、他方で自分のセクシュアリティがばれるのではないかという恐怖を感じるジレンマまみれの場である。「いないよ」と興味のない振りで押し通すが、実際の所は興味がないわけではない。僕だって、人の恋バナを聞いている分には楽しく思う事もあるし、好きになる性が同性であるだけで恋愛に興味がないわけではない。その場の楽しい雰囲気に加わりたい気持ちと、自分のセクシュアリティがばれたら終わりだ、という感情が入り混じって、結局はその場を離れることを選択し、なんとなく疎外感を感じて、自分がゲイと言うセクシュアリティを持って生まれてきたことにため息をつく。

 下ネタだって否定するつもりはない。だが、異性愛を前提に語られる下ネタと、それにあまりついていけないで曖昧に笑っていると「むっつりなだけで実は興味あるんだろ」というノリでやってくるあの感じ。同世代の男なら皆、異性との身体的な関わりに興味を持つのが当たり前、という空気を感じて、自分のような存在は彼らの頭の中には想定されていないのだな、という事をつくづく実感する。彼らに自分がゲイだといったら、想定していない存在の突如の登場に、さぞかし驚いて戸惑うのだろうな、と思うと、なんとなく気持ちが腐って、色んな事がめんどくさくなってくるのだ。

 他にも、男子同士が遊んでイチャコラと絡み合っているのをみて、「BLかよ」「お前ら、つきあってんの?」といった発言が冗談として発せられる場面に遭遇すると、なんだかとても居心地が悪かった。同性同士の恋愛関係は冗談になるのだな、と受け取ってしまうから・・・。

 他にも、子供の発生に関する授業やいわゆる保健体育的な授業で先生方が展開する異性愛を前提とした授業などなど、積極的な差別がなくても、自分のような人間がこの社会の中には想定されていない異端なのだという事を実感する機会は、当事者でなかったら気が付かなかったであろう些細なところに山のように溢れているのである。自分自身の中にある自分に対する差別意識は、自分が異端であるという事を明かした時、周りの人はどんな反応をするのだろうと恐れ、孤立するのではないかと心配して過ごす、こうした日常の小さな小さな事の積み重ねの中にあるのかもしれない。

 加えて、「LGBTQは生産性がない」「LGBTQを認めたら日本が滅びる」「LGBTQは種の保存の原則に反する」などと言った、公の立場にいる人間の発言が問題となったり、ネットに書き込まれる否定的な意見を目にしたりする体験を通して、社会が性的マイノリティに与えたスティグマが当事者個人の中に内在化させられるのに十分すぎる環境が整っているのが今の社会だ。

 1つ1つの出来事はとても小さな事なので、そのたびに何となく笑ってごまかし、「ま、大したことじゃないし」と片付けて、頭で自分を肯定して前向きに生きていたとしても、実際には小さな傷が沢山積み重なってきたのだと思う。それが、前にこのアカウントでも書いた、はっきりとした差別的な発言を聞くという出来事に遭遇して、死にたいと思うほどの強い感情になって現れたり、最近も時々唐突に訪れる虚脱感となって表れているのかもしれない。

 別に、誰かが悪いわけではない。僕が今ここに書いたような出来事に関わっている人たちも、決して悪意を持っているわけではない事がほとんどだろう。ただ、社会の構造に従って生きているだけで、気が付かないうちにマイノリティを追い詰めうる、そういった社会が作られてしまっているという事だ。

 では、僕はどう闘っていったらいいのだろう。一番に闘わないといけないのは自分の中にある自分自身に対する差別感情だ。

 最近、カミングアウトする意味をよく考える。「正直でありたいからカミングアウトをする」と思っていたこともあった。でも、それは少し違うのかもしれない。別に自分の事をすべて大っぴらにする必要はないと思う。誰にだって隠したいことの1つや2つあるだろう。それと同じで、自分のセクシュアリティを隠していたいと思うのならそれでいい。

 ではなぜ、自分はカミングアウトをしたいと思い、するのか。僕は自分の中に内在化された差別感情と闘うためなのではないかと、最近思っている。

 今も、それとなく、またははっきりと自分のセクシュアリティに対して否定的な言葉、あるいは理解がない言葉を耳にすることがある。

 カミングアウトした時、父親は「くんちゃんはくんちゃんだよ」といって受け入れてくれたものの、その後に「仕事で出会った人の中にも、そういう人(ゲイ)いたな。やっぱりちょっと変わった人だった」と付け加えた。受け入れて貰えたことを嬉しく思う一方で、父親にとってゲイは「変わった人」なのかな、という引っ掛かりが未だに心に残っている。それ以来、父親とは自分のセクシュアリティについて話をしていない。

 「くんちゃんはさ、同性婚とかどう思うの?俺は正直気持ち悪いと思っちゃうんだよね」。僕が当事者である事を知らない叔父は目の前でこう言い放った。そう感じてしまうなら仕方がないかもしれないけど、その発言がナイフになってあなたの甥っ子の心臓に刺さってる事を知ってほしいな。

 親戚が集まれば必ず、将来の話になる。「孫が楽しみ~」、「ひ孫が楽しみ~」、「どんな奥さん連れてくるのか楽しみ~。」「彼女はいないの?」はたからみたらなんの変哲もないこの楽し気な会話が、僕にとってはこの上なく居心地が悪い。

 親戚だけじゃない。友達との会話でも「クンちゃんは彼女欲しくないの?俺は欲しい~!!」という会話が展開される。「僕は今はとりあえずいいから、頑張りな。応援するよ~」と当たり障りなく返すが、内心「恋人は欲しいよ?僕だって。彼女じゃなくて彼氏だけど・・・」と呟きつつ、複雑な心境に苦笑いをする。

 とある予備校の講師が「みんなも進学して、いつか女の子は男の子と、男の子は女の子と付き合ったりして・・・」ととうとうと語る。うんうん、あなたはそうやって、今まで何人の教え子に気まずい思いをさせてきたのかな?

 一緒に紅白をみていた祖母が、氷川きよしの歌を聞きながら困惑交じりにつぶやく。「彼、歌はうまいんだけど、ちょっと女っぽいのよね。だって、彼あれでしょ?ゲイ・・・」だったら何?歌がうまい「けど」女っぽい。ばあちゃんにとって男が「女っぽい」ことやゲイである事は否定的な要素に入るんだね・・・。世代の違いがあるから仕方ないと思いつつ、なんだかすごく悲しくなってしまう。

 この数か月間に経験したことで、はっきり思い出せるのだけでもこれだけあって、小さな事ならもっともっと沢山あると思う。

 こういう出来事に出くわすたびに、僕は笑ってごまかすか、それとなく話を逸らす。とりあえずその場の平穏を保つことに専念する。自分を傷つけないように・・・。

 だけど、時々ふと思う。こうやってごまかすことで、僕はまた、周囲から与えられる負のイメージや、自分のような存在を無視した発言を自分の中に受け入れて、自身に対する差別感情を残し続けているのではないだろうか。

 時々、皆にカミングアウトしてしまってオープンにしたいと強く思うのは、こうやって自分が違和感を感じる事や辛いことにふたをすることで、自分自身を傷つけて、さらにそれを無視して放置している現状から脱したいと思うからなのではないか・・・。

 カミングアウトをすることは、拒否されて傷つく危険性を秘めている。でも、カミングアウトせずに違和感や不快感にふたをして生きていく事もまた、いつまでたっても自分を否定する感情に打ち勝てずに生きていく事に繋がるかもしれない。

 あー、参ったな。頭がこんがらがって機能停止する。社会に存在する差別の構造の中で、僕はいったいどうやって生きていこうかな。

 前途多難だ。だけど、最近少しずつ増えつつある心強い仲間と頑張っていくよりほかないね。

 以上、長々とした感情や記憶の吐き出しに付き合ってくださってありがとうございました~。

 (なんとなく、カミングアウトをもっとしてった方が楽になるってこともあるかな?みたいな事書きましたが、あくまで僕の場合の話で、人それぞれだと思うので、そう思って受け取ってくださいね(o^―^o)ニコ)

                        くんちゃん

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