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事実だけ並べても「論理的」にはならない(何が言いたいかわからない)

英文エッセイの基本モデルは、五つのパラグラフから構成されます。

パラグラフが並んだだけでは「構造」がない


しかし、パラグラフが五つ並んでいても、エッセイにはなりません。
各パラグラフにはそれぞれ役割があって、その役割によって結びついてこそまとまりができます。役割は、イントロダクション、ボディ、コンクルージョンの三つです。

それぞれのパラグラフに役割をもたせ「構造」をつくる


ボディーの部分が、伝えるべき内容になり、そこが三つのパラグラフで構成されます。

ボディーだけでは、エッセイになりません。ボディーを読んで、その内容から、そのボディー部分が全体として、何について書かれているかを読み手は推測することはできます。(そもそもボディーがきちんと整理されていれば、の話です。その内容部分自体が整理されていないとしたら、読み手は、いったい何を読まされているのか理解に苦しみ混乱します。)しかし、それは読み手の推測であって、書き手が、何について書こうとしているかは断定できません。これでは、クイズを出しているようなもので、読み手が苦労します。わかりやすい文章というのは、読み手にとってわかりやすい文章です。読み手が苦労する文章は、わかりやすくないです。

わかりやすい文章を書くには、イントロダクションが必要です。読み手に推測させるのではなく、書き手のほうから、全体が何についての話か、説明しておきます。そうすれば、読み手は、その説明に従って、読みながら、確認して、理解できます。


イントロダクションで、ボディー部分のトピックが示される(全体の構造が分かる)

百科事典的に、物事を説明する文章であれば、ボディー部分で具体的に説明をして、オシマイ、ということはあり得ます。例えば、ワクチンには三種類あります、とイントロで述べておいて、ボディーで、それぞれ一つずつ、説明をすれば、話は簡潔です。しかし、意見や考えを述べる文章の場合、事実の部分だけを説明しても、意見になりません。(厳密にいうと、どのような事実をどの順番で並べるかによって、意見や考えを理解してもらうことは可能ですが、それはかなり高度な話なので、別の話です。)事実だけ並べてあっても、「で、何?(So what?)」と読み手は思います。そうした事実に基づいて、合理的な判断を述べる部分があってこそ「論理的な」文章になります。それが、パラグラフレベルではconcluding sentenceとなり、エッセイレベルではコンクルージョン部分でそのまとめが述べられることになります。

各ボディーのまとまりごとに述べられている合理的判断を最後に整理してまとめるのが結論

「論理的」とはなにかというと、事実に基づいて合理的に判断する、ということです。その事実が判断の根拠として適切であるかという方向の問題と、そうした事実から合理的に判断しているかという方向の問題があります。その二つの問題がクリアーできれば、それは論理的な議論となっているといえ、それを読んだ人は「なるほど」と思ってくれます。「なるほど」と思ってもらえることが相手を説得するということです。論文は、説得力で勝負です。読み手が「なるほど」と思わなかったら負けです。

まず、イントロダクションで、これから何について、どのような順で話していくかを説明し、読み手に、読む際の枠を頭の中に作ってもらう。ボディー部分で、その枠の中に、具体的な中身を入れていく。疑いようのない事実を述べて、その事実に基づいて、合理的に判断をすると、こうなるでしょ、と意見・考えを述べる。コンクルージョンで、ここで取り上げたことに基づいて考えるとこうなりましたよね、と考えや意見を整理してまとめる。それではじめて、読み手は「なるほど」と思います。

さらに言うと、「論理的な」読み手は、「なるほど」と思うだけでなく、もしそうなら、次はこうなるのではないか、と「予測」します。書き手としては、その「予測」は当然計算のうちで、(というかそこまで合理的に考えてくれば、当然、読み手よりも先に書き手のほうが「予測」できるわけですよ。)その先の話へ議論が展開していきます。こうして、書き手と読み手との間で、議論が発展していきます。

「事実確認 → 合理的判断 → 予測」という三つの要素が、つながって議論は発展していきます。


論理の循環

事実確認 → 合理的判断 → 予測 → 事実確認 → 合理的判断 → 予測 → 事実確認 → 合理的判断 → 予測 → …

面白い論文は、どんどん次を読みたくなります。事実に基づいて、合理的な判断をすると、その次が予測できるからです。そして、予測したら、次はそれを確認したくなります。その確認が「実験」になるわけです。で、実験した結果に基づいて「考察」する。そうすると、その先が見えてくる。予測できる。まさに「謎解き」です。

合理的な判断ができないと、面白くないです。いろいろ考えられるという考察は面白くないです。可能性を述べるだけでは、事実に基づいた合理的判断がなされていないからです。論理的だと思ってもらえません。なるほど、と思ってもらえません。その先を聞きたいと思ってもらえません。なぞの解明にむけてどう進めばよいかが、わからないからです。

論文では、事実に基づいた合理的判断を説明しなければなりません。そして、合理的な読み手がそれをたどって、同じように判断できること、が論理的であり、説得力がある論文となります。

事実だけ並べても、論理的にはなりません。論文にはなりません。論文とは、論理的な文章です。論理的とは、事実に基づいて合理的に判断することです。そのための鉄則が、エッセイの構造です。パラグラフにはトピックセンテンスを、エッセイくらいの長さのセクションにはイントロダクションを書いてください。そして、説明した事実から合理的に判断すると何が言えるか、事実に基づいて何を言いたいかを明示的に述べてください。

「論文」を書いてください。


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