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『その人の為を思い叱る。』

いつものように、一人の男性が、一人の女性に厳しく叱られていた。

叱られていたその彼は、明らかに萎縮している。彼女から、厳しい口調になる理由が「君の為」だと告げられて、彼には責任感を押し付けられていて。

「君の為を思って言ってるから」と一人の女性が、その彼に向かって発した時。彼はいままでに募らせてきた責任感で、精神が押し潰されたのだと思う。彼は、もう立ち上がれないのだと僕にも重く伝わってきた。

きっと、そこにいた彼は、既に自分自身の責任感をハッキリと感じていたはずで。それでいても、なぜ、彼は必要以上に叱られていたのだろうか。彼には「君の為」だと、ただただ耳障りの良い言葉を並べられて。彼女は自ら口に出した、彼に対する「詰め」を正当化しているようにも見えた。

「他人の為の叱咤」って、そういった怒りは、優しさからくるのだろうか。他人の為に使う怒りが、優しさだと形容されるのなら。僕は、そういった優しい人にはなれないと思う。

彼女の怒りは、側から見れば攻撃的に見えるのだから、一見優しさには見えない。

僕は、他者に対して無難な振る舞いを心がける。しかし、他人に無難に振る舞おうとすればするほど、他人に厳しい叱咤など出来ないだろう。これが時折、僕が優しくない人間に該当するのだろうと思う。

しかし、彼女の「君の為」の言葉は、責任感を感じている彼に対して。更なる必要以上の、責任感で追い込んでいた。こうなって思う。その彼女の言葉は、ちゃんと「彼の為」に使われた「怒り」だったのだろうか。

ここでの根本的な問題点は、確かに彼の行動にあった。つまり、解決しなければならないのは「彼の問題行動」。しかし、彼が意図的にそれを行なっていなければ、解決策を提示するのが即座な解決方法だった。

僕の主観的な観点から思うに。僕自身、叱られるのは非常に苦手なタチだ。仮に「自分が嫌なことは、相手にはしない。」そうした、主観的な事柄においては、僕は理に叶えていると自負する。

叱咤されると僕は萎縮してしまうが、きっと僕に似た人間も同様に、叱咤に対して僕と同じよう恐怖で萎縮するのだと思う。

僕は叱咤に萎縮して、だから他者も萎縮して。そう考えるなら、他人に叱咤することで落ち込まれ、追い込まれた他人の姿を見たとき。まるで自分自身も同じような境遇に陥った時を想像し、その相手に同情の心さえ芽生えるだろうけど。

なんというか、大抵の人々には叱咤など要らないのだと思う。大抵の人々は叱られるのが「怖い」と感じているからだろう。

そう言った叱咤とか、強い口調が必要な時も僅かにあるだろうけど。それは責任感すら感じていない。たとえ問題行動を起こした事にも、むしろ無関係なスタンスで、そんな無責任な態度を取った人間に対してなのだと感じる。

そのような強い言葉で指摘などされなくても。責任感の強い人間の感性なら、自己を律しようと努力するはずだった。ならわざわざ、強い言葉や叱咤などはせずとも、律しようとする人間には、軽く指摘さえしてしまえば、なんら問題なども簡単に修正するはずだ。

たとえ「軽い指摘では足りなかった、だから強い口調で指摘するべき」というのなら。彼の課題としてあった問題は、一体その叱咤で解決したのだろうか。きっとしなかった、むしろ彼は更に追い込まれてしまった。

それを踏まえて、彼は反省する責任感は以前から既に持ち合わせていた。それに気が付けない方が問題とされる、叱咤を起こす理由が、責任感を芽生えさせる為にあるのなら。

彼には、強い言葉などあまり要らなかった気もする。

強い言葉や、罰を与えたところで。まず問題が解決しなければ、また彼は同じ過ちを繰り返す。同じ誤ちをすれば、さらなる罰を彼女から、彼に与えられるのだろう。「叱咤」という恐怖を植え付けたところで、彼の根本的な問題が解決しなければ、永遠に同じ失敗の繰り返しだ。

一体、本心から彼女は「彼の為」に罰を与えたのだろうか。彼は既に責任感を感じており、そんな彼に「彼の為」だと本当に思えたのであれば、ここで必要だったのは「罰を与え続ける」ことよりも、「問題解決の為の道標」であったのだと思う。

仮に彼が無責任、反省していないのであれば、叱咤なども少しは必要で有ったのだと思う。もしもそんな「非を認めてない人間」に指摘するのは確かに面倒だ。反省する気持ちのない人自身、問題意識しないからだ。軽く言われた言葉の意味、責任。それらを素直に認められない人間にする指摘は確かに面倒だ。

しかし、その彼の行動が、その彼の人生に影響し。本当の意味で彼の人生を考えられるなら、「相手の為を思って叱る」それはきっと理に叶っている。そうした他者目線で考えられたなら、それはきっと優しい人間に該当した。

責任感の無い感性の人間には、そうした責任感を感じさせるような、強い指摘の仕方でなければ伝わりにくい。そうした時に、ようやく叱咤などが必要となってくるのだろう。責任感が無い人間は、むしろ他者に対しての責任すら感じるのだろうけど。

そう言った観点から、この状況を見ると。

ここで、一番間違っていたのは。叱咤する事で「恐怖」を彼に常に植え付け、更に彼を追い込み逃げ場すら失わせていた、彼女側だったはずなのだ。

きっと彼女は、何度言っても理解の出来ない人間には、更に罰を与えることで理解させよう、という試みだった。失敗する度に何度も何度も罰を与え、改善出来なかった状況に陥っても、指導のやり方を変えず無責任にも怒り続けた、彼女側の態度だったのだと思う。

立場の強い者ほど、叱咤の出来る相手が少ない。誰も口出しが出来ない。そうして無自覚にも人を追い込み、そういった自分には責任感すらない彼女が「彼の為」だと言って、全ての責任を彼に託した構図となって。

そして、それを見ても誰もその「彼女の怒り」に逆らえるほど。彼女の為を思い、叱るべきはずの場面で、見て見ぬふりをした。

誰も彼女に対して「彼女の為を思い叱る」そんな優しさすらも出来なかったのだから。

そんな逃げ場のない彼だけが、潰れてしまったのは当然だった。そう、今なら思える。

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