見出し画像

便利と、不便が憂鬱にさせた。

インターネットは生活を豊かにしてくれる便利な代物だ。スマートホンなんて端末が世に浸透してからというもの、確実に世の中には便利さが増したのだと思う。

人と会うための"予定"を組むとする行為ですらも、最も簡単に、片手間でも出来てしまえる程に。「お盆はどうするの?」と、催促でもしてくるような、そんな親からの連絡一本で、その後のお盆の予定が埋まってしまう現状。過去の人類って、どれほどまでに複雑にしてヤリクリしてきていたのだろうか。と、しみじみ感心してしまうぐらい。

しかし、端末なんてなかった当時に少なくとも僕も、そのような状況下で生きて来たはずだったが。(今後、そのような不便さを体験しない大人さえも出てくることを考えると凄まじいことだ。)ただ、その当時の心境を振り返ってたとしても、今に感じてしまえる"不便さに対する焦りのような感情"は皆無に近かったはずだった。当時は、その不便さについて疑問すら抱けなかった理由に、それ以上の便利さが当時には備わっていなかったからであるだろうと思える。

しかし、なんだか、どんどん簡単な方にへと加速していく世の中の一方で。それは同時に、より依存先すらも加速して増やしてしまっているのではないかとさえ、感じられてしまう。例えば、このような便利な端末が出てきてからというもの、この便利な端末が無くなるだけで不便ささえ感じてしまう体にへと。体の構造改築工事が次々と、行われてしまっているよう。

様々なことが簡単になって行えてしまえばしまうほど、不便だったことが便利にへと掌を返すようにして。不便だとは感じて来なかったことが、不便だと感じるように置き換わっていることさえあるようで。

まぁ、それを簡単に、一言で言うのなら。単純に、今と昔の「感じ方」が変わってしまっただけ。と捉えられることもできるが。そうすれば僕らは、その感じ方にただ振り回されながら生きているだけなのだなぁ、と卑下し、悲しくも思う感想が抱ける。

それと、誰かにとっては便利な世の中に変わっているとしても。一部の人間にとっては実に不便で生きづらい世の中にへと、変わっているのかもしれないとも捉えられる。

なんだって拡張してしまうような世の中だ。交友関係であれ、恋人関係であれ、誰がどこでなにを行なっており、何に対し、興味や感心を示しているのかなど、指先一つで知れてしまうほど。可視化される領域の幅は広がってしまった。本来それらに対して僕自身、興味が無かった分野でさえあるはずで。知れたからと言って、自分の人生のキャパを明らかに超えている程の領域になりつつあり。不親切な情報元すら増えている気すらしている。

今までは、嫌にでも切り離されてしまえた人間同士の物理的な距離感。それを埋めるようにして、電波に心を乗せては繋がり続けようとも出来てしまえるほどに、今は拡張してしまった。自分達のパーソナルスペースが、今までの自分達がエリア圏外だと感じていた場所にまで、行き届いていくようにして。

暇だった僕は、そんなことをボンヤリと考えていた。

「夕食に何食べる?」と尋ねてきた友人に「ラーメン」と答えてから、携帯で近所のラーメン屋を検索してからココに来た。オーダーを通して、料理が来るまでの待機時間。意外とこのタイミングが妙に暇を感じさせる。「待っている」という状況下では、待ち遠しい気持ちでも湧いてくる。

側で、携帯と向き合っている友人を眺める。人と会う際に携帯を触ろうとするのを、僕は控えているが、彼は気にしていなさそうだった。嫌な人にとっては、嫌なものなのだろうが、別に僕は気にしない。僕でさえ、無理に会話を続けようともしない。別に、彼にそこまで悪気もないのだろうと思ってるし。僕も黙るようにしていたかったから。そのまま無言で手に持ってた板と睨み合い続ける友人の姿を見てから、何となく色々考えていた。

単純に今便利に扱えるものの数が増えたのだろうと考えていた。変に「つまんないの?」とか、そうした憶測を抱いたからと言って、そうした質問をするのも野暮だと感じる。別に、その様を肯定したかったわけでもないけど。

こんなにも"個人にとっての出来る範囲"が拡張されたところで手に余ってしまう程度のものなのだろうという感想が抱き。ようやく、こちらに目を向けて来た友人に「何を真剣そうに見てたの?」と問えば。簡単に「彼女に返信していた。」という彼の私生活の一面が垣間見れただけだった。今のこの瞬間、気持ちを共有していたのは、僕ではなく、彼女への方だった訳であり、たった、それだけのこと。

常に他とのリンク繋げられてしまいながら今に居る。彼は、彼女に返事でもしなかったら不仲にでもなるのか、それとも彼自身がモヤモヤとするだけなのか、そんな詳細の部分は知らない。

ここで、ふと疑問に思ったことがあって。これが便利なのか、不便なのか。こうなっている状況下での彼は幸せなのだろうか、とか湧いてきて。

なんだか便利であるけど、それで良いのだろうかと感じてくる要素があった。果たして、いつの時代までに人との丁度良さがあったのだろうか?と、少々飛躍したような疑問が浮かんで。それが、なんとなく今なような気がしなかった。

しかし、とはいえ、昔の方が良かったとかそう言った結論でもなく。

過去に居た僕でさえも、それほど幸福感はなかったはずだったように思えてくるから。妙にこうした距離感のようなものは、昔にも有ったような気がして。

便利さと幸福感は別物なのだなぁ、と気が付けたように思う。

別に便利なことが不幸な事ではないが、便利だからと言って幸せなわけでもない。

妙に今は憂鬱の気持ちの方が強い、もうすぐ休みの最終日に差し掛かろうとしているから。

「知らないほうが、幸せなこともある」
これが正しいのだろうと解釈した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?