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あたしだけの戦争

「じゃあ、ここで待ってなさいね」
 そう言い残して坂道を下りていくお姉ちゃんの体が足の方からだんだん見えなくなって、麦わら帽をかぶった頭だけになる。あたしは顔をそむける。頭が消えていくのを見るのが怖いのだ。戦争が終わってもう一年たつのに、弟が死んだ時のことがいまだに忘れられない。降り注ぐ豆爆弾から走って逃げていた弟は、足をすべらせて底なし沼に落ちて死んだ。膝から腹、胸とゆっくりと泥に沈んでいく弟をあたしはただ見ていることしかできなかった。ついに頭だけになった弟は、とても悲しそうな目であたしを見た。正視できずにあたしは固く目を閉じてしまった。次に目を開いた時、弟の姿はどこにもなく、麦わら帽だけがあぶくのたつ泥に浮いていた。姉弟で一緒にお祭りで買ったおそろいの麦わら帽を、あたしはその日以来かぶれなくなった。戦争が終わったのは、弟が死んでわずか数日後だった。

 よかったね、やっと戦争が終わって。会う度に挨拶のように繰り返していた村人たちだが、いつの間にか誰も戦争のせの字も口にしなくなった。まるで戦争など始めからなかったかのようだ。けれども、あたしの中ではまだ戦争は続いていた。泥に飲まれた弟の悲しげな顔が、繰り返し夢に現れた。助けることはできないにしろ、なぜ最後まで見守ってやらなかったのだろう。目覚める度に激しい後悔にさい悩まされた。沼に近寄るだけでひどい吐き気がするので、いつもお姉ちゃんと一緒だった買い物すら行けなくなった。村で唯一の食料品店は沼のほとりにあるからだ。あたしは坂の手前で一人、お姉ちゃんが帰って来るのを待つだけになった。 

 しばらく木にもたれてぼんやりしていたが、一人でいると余計なことを考えてじっとしていられない。ひょっとしたら、もう平気かもしれない。むなしい願いを胸に木立の隙間から沼の方をのぞいてみるが、夏の日差しを浴びて輝く沼面がちらっと見えただけで吐き気がこみ上げ、しゃがみこんでしまう。やっぱりだめだ。

「お嬢ちゃん」
 背後で声がした。振り向くと、小太りのおじさんが立っていた。全然知らない人だ。
「どこか具合悪いの? 病院に連れて行ってあげようか」
 じっとあたしの腰のあたりを見つめるおじさんの全身から邪悪な気配が漂っていた。喉元にこみ上げてくるのは、忘れようとしても忘れられない、豆爆弾に追い回されて逃げている時のあのどす黒い恐怖だった。震える足で強引に立ち上がる。豆爆弾に殺されるのは弟だけで十分だ。おじさんの脇をすり抜けて坂道を駆け下りた。気味の悪い息づかいがあたしを追ってきて、背中に何かが触れ、振り向くと血走った目がすぐ鼻の先にあり、夢中で両手を前に突き出した。やわらかい手ごたえがして、藪の中におじさんの体がいったん沈み、すぐにまた現れ、泣きそうな目で足をひきずりながらお寺の方に逃げていった。あたしは、全身の力が抜けてその場に崩れ落ち、顔を伏せたまましばらく動けなかった。心臓がばくばく鳴っていた。

「菜穂子、あんた、そんなとこで何してるの」
 はっと我に返ると、肩越しにのぞきこむお姉ちゃんの顔のすぐ向こうに、濁った沼が広がっていた。あの日とまったく同じ場所にあたしはいた。あわてて胸を押さえる。こみ上げる熱いものは吐き気ではなかった。助かったという安堵感だった。弟が沈んだあたりの水面は細かい光がちらちら踊っていた。弟は死んだ。けれども、あたしはこうして生きている。戦争は終わったのだ。あたし一人だけでいつまでも戦争を続けているわけにはいかない。
「帰ろ!」
 勢いよく立ち上がると、お姉ちゃんは大きく開いた目であたしを見て、沼を見て、またあたしを見た。「あんた、平気なの?」
 あたしは大きくうなづいて、お姉ちゃんが両手に下げた袋を一つもぎとって、
「明日から、また一緒にお店に行く。お姉ちゃん、野菜の選び方へたくそだし」
 お姉ちゃんは、不思議そうな顔をしたかと思うと、すぐに意地悪そうな笑みを浮かべ、
「こいつ」
麦わら帽を脱いで、わざと乱暴にあたしにかぶせた。
 坂道を上りきってから振り返ると、沼はとても遠くに見えた。弟が沈んだのはどのあたりなのか、もう見分けがつかなかった。    (了)
 

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