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夕陽が太平洋に沈む時 【第10話】

 夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】

 麻衣もその女を振り返った。

 まったく面識のない女ではあったが、麻衣には、あたかも彼女の悲哀が一瞬伝染したかのように感じられた。

「私もよ、私もなの。私にも貴方の心情が理解出来るわ。人を愛するということは、時にはとても悲痛な事よね」、麻衣はそう言って女を抱きしめたい心情に駆られた。

 すでに夜は更け始め、時おり白いまだら泡が浮かび寄る海は薄気味悪さを演出している。

 しかし、この場所がホテルの敷地であるという事実が麻衣を安心させていた。ここには、基本的にはホテルのゲストしか入れないことになっている。ホテルが林立する地区は比較的安全な場所であると憶測される。

 麻衣はもうしばらく海岸を歩いてみることにした。静寂に支配された部屋に戻る憂鬱さと比較したら、夜の闇などさほど苦にはならない。

 松明のある方向へ歩いてゆくと、さらに一組の男女の後ろ姿が暗闇に浮かび上がって来る。

 その瞬間、麻衣は遠目に何らかの違和感を感じたのだが、彼らの10メートルほど背後に近付いた時、初めてその理由を理解した。

 男の方は片足を引きずっていた。二人とも黒髪であったが、男性の方は背が高く上半身が逞しく、平均的なタイ人の体躯ではなかった。白いワイシャツの上からでもそれは窺える。

 この人のセミロングの髪、ああ、あの晩のハワイダンサー達を思い出すわ。あの時は、皆、楽しそうに踊っていた、踊りそのものが挑戦的で、一時も目が離せなかった。

  海外ロケにて最後にハワイを訪れて以来、麻衣は一度もハワイを訪れていない。ハワイを訪れたら、おそらくマウイ島を訪れてみたくなってしまう。そして、マウイ島の至るところには、あの男の幻影が残っているはずである。

 麻衣の前を歩いていた男女は、海岸からホテルの方へ方向転換をした。彼らの会話は聞こえて来ない。会話をしているのかどうかも定かではない。波打ち際に囁くように打ち寄せる波音に、他の音は全て打ち消されている。

 麻衣は何となく男の方の顔を正面から確認してみたくなり、方向転換をして二人の背後を同距離を保ちながら歩く。

 その辺りは隣接するホテルとの境界線近辺であったため、彼らと同じ道を辿ってホテルに戻ってもさほど不審感は抱かれないであろう。

 男が後ろを振り返ってくれないであろうか、と麻衣は多少期待をしていた。

 だが、期待は外れた。

 二人は、麻衣を一度も振り返らず、そのままエレベータの中に消える。

 女の方は一目で水商売と判別出来る服装であった。豊満な体のラインにぴったりと張り付くオレンジのミニのワンピース、砂の浜にはまったく不都合な赤いエナメルの靴。

 その二人がホテルの一室で繰り広げる行為と言えば、それほど想像には難くない。

 何故あの男のことがそれほど気になるのだろう。コニーに後ろ姿が似ていたから?

 麻衣は、彼らの乗った東ウィングのエレベータ乗り場に佇んでいた。「6」の階にランプが点いている。麻衣の部屋には、西ウィングからのエレベータの方が近いのだが廊下は繋がっているので、東ウィングのエレベータに乗って昇っても、麻衣の部屋までは歩いて戻れる。

 麻衣は一瞬躊躇をしたが、ホテル客がエレベータに乗ること自体は、不自然なことではないと自身を納得させる。

 麻衣は東ウィングのエレベータに乗りこみ、自室の階である8階のボタンを押した。エレベータはレセプションのある1階で一旦止まりドアが開いたが、乗りこんで来る人はいなかった。その後、2階、3階、4階と徐々に昇っていく。

 心臓は次第に高鳴りを始める。

 ほんの少しだけ降りてみたっていいじゃない、間違えた階に降りても誰も咎めやしないわよ。

 麻衣は「6」の数字に恐る恐る触れてみたが、感度の良いボタンはその即座に点灯する。

 6階のドアが開き、麻衣は廊下に出た。麻衣の後ろではエレベータのドアが閉まり上昇を始めた。廊下は明るく照らされてはいるが、静まり返っている。

 麻衣は、大きく嘆息を付く。

 馬鹿な麻衣、探偵ごっこはこれでおしまい。もう部屋に戻って寝なさい。そもそもあの男の顔を見てどうするの?水商売の人を買うような男。

  麻衣は、自室に近い西ウィングのエレベータまで歩き始める。廊下を半分ほど歩いた時、微かな物音が聞こえてきた。

 彼女は思わず息を殺し、物音の聞こえてくる部屋まで忍び足で近付いて行ってみる。部屋のドアは10センチほど開いたままになっている。

 その10センチが麻衣の制御力を無効にした。好奇心とは、往々にして、人に通常は行わないようなことを強いる。

 麻衣は、ベージュ色の絨毯の敷き詰めてある廊下に膝を立て、上体を屈めた。開いているドアから中を覗くためである。念のため、廊下を見廻したが、そこには人の気配は無かった。

 部屋の中には、くだんの男と水商売の女が居た。そして、二人は案の定、麻衣が想像していたような行為に及んでいた。少なくとも廊下からは、そのように窺えた。

 男はシャツを着たまま、麻衣には背中を向けてベッドの端に座っている。女もまた服を着ていたがベッドの脇の床に座り、男の腿の間でしきりに頭を動かしている。時々低い呻き声を漏らしているのも女の方である。

 南国の一情事、この巨大なホテルの、何室でこういった行為が繰り広げられているの。そのうちの何組が本当の恋人同士で、何組が、こういった関係なのかしら。

 夜中のホテルの廊下にて、膝をついて盗視しているという姿勢は、不自然であり、心地の良いものでもない。次第に膝も痺れて来た。

 それでも見てみたい、顔が。女にこのような行為をさせていても広い背中を全く反らせない厚かましい男の顔が。

「Feel free to come in, you are more than welcome(ようこそ、君なら大歓迎だ)」、と突如、部屋の中から男のしわがれた声が響いた。

 麻衣はバランスを崩し廊下に尻餅をついた。

 その直後、部屋から女が出てきた。瞳が情熱的なタイの女であった。相場よりは多そうな何枚かの紙幣を鞄に入れながら麻衣を不可解な表情で見下ろし、何かを言いかけたが、開きかけた口をまた閉じ、早足でエレベータの方へ歩いて行った。

 男にはずっと気が付かれていたんだわ。なんてみっともない私。

「入らないならドアを閉めて帰ってくれ、疲れているんだ」

 男は実際疲れているようであった。

 麻衣は、あたかも夢遊病に罹ったかのように、部屋の中に足を踏み入れていた。部屋は、念のため少しだけ開いておいた。その部屋の中で自分が果たして何をしようとしていたかは不明であった。

 麻衣は注意深く部屋の奥に入り、男に近付く。

 正面で男の顔を見た途端、身体全体から力が抜け、背後にあったソファに倒れこんだ。

「何故、貴方がここに?」

 ベッドの端に座っていたのは、多少やつれたようではあったが紛れもないコニーであった。

 しかし、麻衣の記憶の中に残っていたコニーではない。

 彼の右脚は、付け根の辺りからまるまると欠けている。そして、ベッドの脇には義足が一本落ちている。

「貴方の足」

 そうだわ、中東の戦争。彼は医者だったわ、軍医として行って足を撃たれたのよ。きっとそうだわ。

 コニーは微笑んだ。懐かしい微笑であった。麻衣が覚えていた数少ない彼の仕草、優しい微笑。

「君がいろいろとご親切な想像してくれる前に、自分から説明した方が良さそうだな。これは事故で失ったんだよ」

「事故、どんな?一体いつのこと?」

「さあ、よく覚えてないな、かなり昔のことだったから」

「いくら昔でも脚を失くす大事故なら忘れられるわけがないでしょう」

 コニーは微妙に眉をひそめた。

「君こそタイで何をしてるんだい?」

 彼は話題を変えた。

 麻衣はコニーの脚の付け根を一瞥する。
 
「新婚旅行よ」

 本来ならば、目の前の男と実行するはずの新婚旅行であった。

 それを、今は他の男と行っている。しかし、麻衣には何らかの罪悪感を感じる必要はないはずであった。罪悪感を覚える人間がいるとしたら男の方である、と麻衣は確信していた。

 新婚旅行、という言葉を聞いても、男は表情を変えなかった。

 麻衣は溢れる怒りを止めることは出来なかった。通常、他人に罪悪感を押し着せるような発言は極力控えている。しかし、この場合は異なる。この男には多少なりとも罪悪感を背負って生きて行って欲しかった。少なくとも麻衣の10年間の重みの分だけ。

「貴方に蒸発されて10年間、ようやくトラウマから回復して、他の人を愛せるようになったの。正確には、愛する努力をしようと前向きな気持ちになれるようになったのよ。でも、貴方に再度会う機会があったとしたらずっと訊ねたかったことがあるの」

 コニーは窓の方へ顔を向けた。目尻には微かに11年間の年月を感じさせる変化が現れていた。

 11年間、一時も忘れたことがなかった男が、今こうして目の前に居る。脚を一本失って。脚の付け根にある筈の局部は白いシャツの下に隠されている。

「君の訊ねたかったことは察しがつくよ」

「それなら話が早いわ。でも私の口からはっきりと言わせてね。11年間ずっと訊きたかったんだから。何故あの晩、結婚式を挙げた日の夜、来てくれなかったの?一晩中眠らないで待っていたのよ」

 あの晩、コニーを待っている間に叶から受けた暴行まで脳裏に生々しく浮かんで来る。あの日起こった一連の出来事を回想する時、切り離すことは出来ない負の記憶であった。

「俺に何と答えて欲しいんだ?もう11年も前のことだろう?」

「貴方が勝手に終わらせたんじゃない、私は11年間も、4000日近く、毎日、疑問し続けてきたのよ!Why? Why? Why? Whyと。貴方がたった一つの答えをくれたとしても貴方には何も失うものはないでしょう。そして、私はもうWhyと問い続けなくても済むようになるわ」

 コニーは居住まいを正し、ヘーゼル色の瞳で麻衣を見据えた。

「君は今は幸せではないのか?ここには新婚旅行で来ているんだろう」

「幸せだわ、少なくとも幸せになろうとしてる」

 麻衣は、剛史までが突然の電話で消えたことを脳裏から振り払おうとした。

 今晩起きた出来事は、コニーに見透かされるのではないかしら。そうしたら彼はどう反応するのだろう。同情するのかしら、それとも笑いこけるのかしら。

「君が現在幸せなのだったら、今さら何の意味も成さないだろう、11年も前のことなど。あの日のことはハワイの美しい思い出にはならなかったのかい?眩しかった太陽、紺碧の海、ハワイアンダンサーとの束の間のアバンチュール」

「貴方は、あの日のことを単なるアバンチュールと呼ぶの?」

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