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国道の二人 【第2話】

国道の二人 【第1話】

 思考とは、逸らそうとすればするほど、却ってその思考に焦点が押し戻される。私の場合の焦点は映画の『激突』であった。

 追い越し車線があったのであれば、「是非追い越して下さい」と伝えたいところであるが、急勾配がしばらく続いているこの国道では、一車線が続き、「追い越し禁止」のサインが立っている。車道の左右には限りなく黒い森が拡がり路肩も狭い。

 真夏とはいっても、日没のあとには車内の気温も下がっている。しかし、両手の平は汗を搔いている。ハンドルを握る手が滑らぬように、ジーパンの腿で何度も汗を拭く。

 緊張状態が止まらない時、私はいつもどうやって対処していたのだっけ?

「確か、本があったはず」

「本?何のこと?」

「クライスラー年鑑、という車関係の本です。私が、この中古車を買った時、ハウスメートが下さったんです。後ろの席に置いてありませんか?」

 葉子さんは後ろを振り向いた。

「何か分厚い本があるけど、これがそうなの?」

「そうだと思います。取ってもらえますか?」

「取る?後部席まで届くわけないでしょう、シートベルトをしているんだから」

 驚嘆した声調にて葉子さんは反応する。

「スピードを少し落としたら、短時間だけシートベルトを外せますか?」

「スピードなんて落としたら、後ろのトラックがそれこそ激突してくるわよ。貴方一体何考えてるの?何でそんなにこの本が必要なの?」

 私はスピード計を確認した。針は55マイルを指している。キロメートルに換算したらおよそ90キロメートルである。このスピードで同乗者にシートベルトを外せとは、非常識なことを嘆願してしまった。

 自分の車の馬力が、果たしてどのくらいであるか知りたかったのだ。しかし、葉子さんの言うとおり、今は車のスピードを下げるわけにはいかない。背後のトラックは、同距離を保持しているとはいえ、今スピードを落とすことは非常に危険である。

 私は、クライスラー年鑑の本を、手に届くところに置いておかなかったことを後悔した。分厚いとはいっても、助手席のポケットには入れられるサイズであるはずであった。

 この車の車体は頑丈であり、馬力も弱くはないはずである。唯一の欠点は理不尽なほどの燃費の悪さである。一日のガソリン代で夏物ワンピースが一枚買えるほどであった。

「わかったわよ」

 突如、葉子さんが決意を固めた口調でそう言った。

「はい?」

 私は自身の聴覚を疑った。

「何とか届くかやってみるって言ったのよ。一旦シートベルトも外すけど、その間は絶対に気を付けて運転してよね」

 今までは、私が嘆願したことをほぼすべて拒んでいた葉子さんが、危険な作業を引き受けると言っている。

「本当にいいんですか?気を付けて下さいね、助かります」

 葉子さんは、「もー危ないなあ」、と言いつつもベルトを外し、片手でシートの角に掴まり、片手をクライスラー年鑑へ伸ばしていた。多少苦戦をしたようで、彼女の上体が私の腕に何度かぶつかる。そのつど、車体も左に傾く。

「気を付けて運転してって言ったでしょう」

 葉子さんは、厳しい声調で私を罵倒する。

 ようやく、葉子さんは年鑑を抱え、助手席に戻り、シートベルトを締めなおす。

「これで満足?」

 息を切らせながら葉子さんが問うた。

「有難うございます。もう一つお願いしていいですか?その年鑑に私の車に関する情報があるか調べてもらえますか?」


WikiCar DodgeDiplomat


「そんなことまで私がやらなくちゃいけないの?大体こんなに暗くては何も見えないわよ」

「私は運転をしているので手を離すわけには行きません。葉子さん側のドアのポケットに懐中電灯が入っています」

 葉子さんは観念したのか、懐中電灯を取り出して分厚い年鑑を開いた。

「車種は?」

「Dodge Diplomat、1989年型です」

「えー、この車そんなに古いの?新品かと思ってたわよ。家に辿り着くまで何とか持ちこたえて欲しいわね」、とつぶやきながら葉子さんは年鑑を捲り始めた。

 私は、この車を非常に信頼していた。セダンにしては大型で乗り心地良いこの車は、私の米国生活の一部になっていた。

「Dodge Diplomat。見つかったわよ。でもポリスカーって書いてあるわよ」

 そうなのだ。このモデルは、長年ポリスカーとして使用されていた。このままサイレンを車の上に置いたら、覆面パトカーのふりもすることも可能なはずである。

「馬力はどのぐらいって書いてありますか?」

「馬力って英語でなんていうの?」

「ホースパワー、hpで記されていると思います」

「これかしら、198hp、あ、でもここには140hpって記載されているし、なんかよくわからないわ」、そう言って葉子さんはあっけなく匙を投げた。

 198hpか140hp、タンクローリー程度の大型のトラックの馬力は400hpから600hpだと車に詳しいハウスメートがいつか言っていた。

「また眉間に皺を寄せて神経質そうな顔をして、今度は何が問題なの?」

 葉子さんが溜息を漏らしながら苦言を放った。

「たとえこちらの馬力が198hpだとしても、背後のトラックの馬力が400hpだとしたら、追いかけられたら逃げ切れませんね」

 そこで葉子さんは失笑した。

「貴方は、頭の回転が速いのか遅いのか、わからない時があるわね。大型トラックの馬力がセダンよりも大きいのは、運ぶ重量が違うからに決まっているじゃない」

 葉子さんの毒舌には慣れつつもあったが、自分自身、頭の回転が速いのか否かなど判断不可能である。

 今の私に知覚出来ることは、これだけである。

 ほぼ一時間走行しているが、対向車とは一度もすれ違わなかったこと。しばらく何の道路標識も出てこないため、自分たちがどの辺に居るのかがまったく把握できないこと。照明一つない黒い森の中を走行していること。背後からずっと同じ大型トラックが付いて来ていることである。

 そして、極めつけは、後ろのトラックから激突されるのではないかという被害妄想が脳裏から排除出来ないこと。

「何故、大型トラックとセダンの馬力なんて比較したいの?馬力を知って満足したの?結局もっと心配になっただけじゃないの?」

 葉子さんが渇いた口調で私に問いを投げ掛けた。あるいはそれは問いではなく、非難であるかもしれない。


「葉子さん、何故危険だと思ったのに後部席から本を取ってくれたのですか?」

 彼女は私の腕を指さした。

「これはあまり言いたくなかったんだけど、腕よ、貴方の腕、すごく痙攣しているのよ。昼食のあとぐらいからずっとよ。残念ながら運転を交替することは出来ないけど、私にも少しぐらいは助けられることがあるのなら、と思ったわけよ」

「葉子さんが?」

 この人に、人情の欠片が残っていたとは。葉子さんに対しては傍若無人という形容以外、私の中にはなかった。

 葉子さんは、懐中電灯とクライスラー年鑑をドアのポケットに入れながら話を続けた。

「でも貴方の腕の痙攣が数分間止まった時があったわよ。いつだかわかる?馬力の比較をしていた時よ」

「落ち着くんです、何故か、少しだけど。統計を分析したり、いろいろと計算をしていると集中力と思考がそちらへ逸れて。葉子さんは、冷静にならなくてはならない時は、どうするんですか?」

 私の質問に対して、葉子さんからは即答が戻って来た。

「そうねえ、それぞれの場面において、起こり得る最悪のシナリオは何か、と分析してみることかしら。人って往々にして得体のわからない事象に脅えるわけでしょう?だからその正体を識別してやろうってこと」

 彼女の返答には一理あったが、私には効果的アプローチではないと感じた。何故なら私の場合は、最悪中の最悪、現実ではほぼあり得ないようなシナリオを想像してしまうので、却って逆効果であるのだ。

 私の腕はまだ痙攣していた。

 突如、車内が微妙に明るくなった。

 フロントミラーを覗くと、背後の大型トラックが少し近付いて来ていた。車内が明るくなった理由は、背後のトラックのヘッドライトが近くなっていたからである。

 トラックはすぐに背後まで迫って来ていた。

 最悪の事態を想定していたに拘わらず、現実味も無かった。足はガスペダルの上に残っていたが、固まっていたため実際には加速することも出来ず、異変に気が付いた葉子さんが私の腕に激しくしがみついていたため、腕の自由も効かない。あまりに実感が湧かないため、不思議と衝突の恐怖は無い。

 果して、

 トラックは想定外の行動を採った。トラック独特の轟音を立ててながら、私達の車を追い越して行ったのである。

 トラックが通り過ぎて行くその瞬間、私の車のヘッドライトはトラックの荷台を照らした。やはりガソリンスタンドに停まっていたトラックであった。荷台のミック・ジャガーの似顔絵に見覚えがある。似顔絵の中のミックは、「アッカンベー」の表情を向けながら、私達を嘲笑しているようにも見えた。


「あれ?」、と最初に声を発することが出来たのは葉子さんの方であった。

 続いて、私も渇ききった咽喉の奥から声を発した。

「もしかして、今までの心配は取り越し苦労だったってことでしょうか?」

 葉子さんは後方を振り返った。

「そういうことになるわね、後方には他の車も何も見えないわよ。ひとまず安心した?Give me five(やったね)」

 そういって葉子さんは上体をこちらへ向けて右手を振り上げた。

 何かしら幸運に感じられることがあると出現する葉子さんの癖であった。そして、その時は私も右手を上に向けて葉子さんの激しい平手打ちを受け止めなければ、彼女は途端に機嫌を損ねる。

 しかし、今回ばかりは私もGive me fiveという心情であったので、躊躇なく同意した。拡げた私の右手に、葉子さんは容赦なく平手を打ったので、車体は再び揺れた。

 
 ミズーリ州の州都セントルイス。
 深緑の眩しいヨーロッパ風の雰囲気の町、その町を出発して国道に入ってからすれ違った対向車は10台にも上らない。ここ1時間以上は一台も見掛けていない。

「考えてみたら、あの大型トラックが私達にとっては唯一の人間とのコンタクトでしたね」

 私はそう漏らした。

 追われているのも落ち着かないが、米国中西部の黒い森の中で、夜間、女二人だけ、という状況も心細い。

 燃料計を確認してみる。

 ガソリンは4分の1程度減っているように見える。1時間強で4分の1を燃焼するのであれば、4、5時間以内にこの森から出られないと、燃料タンクが空になる危険もある。人家、店はもとより、ガソリンスタンド、文明的なものは何一つ見つからない。

 いざとなったら助けになりそうなトリプルAという自動車保険には加入して来たが、公衆電話が見つからなければトリプルAに連絡をすることさえ不可能である。
  

「今度はあのトラックが恋しくなったの?まあ調子がいいわね、あんなに焦っていたのに。喉元過ぎれば、とはよく言われたものね」

 葉子さんは、いささか寛いだ雰囲気でそう答えた。いずれはまた熟睡してしまうであろう。


「あ、あれは何でしょう。何か光ってますよね」

 私は正面を指さした。

「もう、また脅かそうとしているの?馬のあとはUFO?被害妄想もほどほどに」、と苦情を垂れつつ正面を見据えた葉子さんの言葉は途切れた。

 
 前方にハザードランプを点灯している大型トラックが停まっていた。ほぼ100メートル先であろうか。かなり見通しの良い場所である。

 私は徐行をしながらその車に近付いていった。
 さほど良い予感はしない。

「葉子さん、後ろのドアもロックしてありますよね」

「さっき、貴方に言われた時、ついでに後ろも確認したわよ」

 私達は、ハザードランプの横にて腕を組んで仁王立ちをしている人影を確認した。

 カウボーイハットに黒皮のベストの男であった。ガソリンスタンドで見掛けた男であった。帽子に隠れて目は見えなかったが、こちらを向いている。

 すなわち、男の背後にて停まっているのは先程のトラックであろう。



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